控えの小部屋は、少しだけ冷たい空気に包まれていた。
部屋の壁際には金の装飾が施された長椅子が並ぶ。
低い円卓の上に、銀のポットや白磁の茶器が整然と置かれていた。
窓には薄いレースのカーテン。
庭園の灯りが柔らかく滲んでいる。
大きな姿見と小さな化粧台も備え付けられている。
きっと化粧直しに使うのだろう。
小部屋の扉が閉まると、ほんの少し聞こえていた弦楽の音も、ぷっつりと途切れた。
―――――――
厚手の豪奢な絨毯は、足音も吸い込み、静けさに拍車をかける。
紅い瞳のおねーさんに手を引かれるがまま、あたしは部屋の中央のソファに腰を下ろしていた。
おねーさんは部屋の隅のテーブルで、何かごそごそと作業している。
どうやらお茶を用意してくれているようだ。
流れるような金色の髪が、部屋の灯りをキラキラと綺麗に照り返している。
後ろ姿だけでも、高貴な品の良さを窺えた。
声を掛けてくれて、そして心配してくれる感情色を視たせいか。
やけくそ気味だった激しい情動が収まってきていた。
「はい、どうぞ」
目の前にカップを置いてくれた。
おねーさんが、あたしの顔を覗き込む。
「泣いたあとは……喉が渇きますわよね」
やさしく微笑むおねーさん。
口元のほくろがとても艶っぽい。
「わたくし、お茶を淹れるのは得意ですの」
おねーさんの紅い瞳が「飲んでね?」という強い意志を伝えてくる。
「ありがとうございます……」
確認されずとも、勧められたらいただくのがあたしの正義。
両手でカップを支え、顔に近づけると、ふわりと紅茶の香気が漂った。
「あったかい……」
熱い紅茶が、消耗した身体に染み渡る。
……美味しい。
香りも強いし、これはめっちゃ良い茶葉。
……お茶の品質から思い浮かべちゃうなんて……
でも、気分が回復してきている証拠だと思った。
「お話を聞く前に、これね」
そう言っておねーさんが持っていたのは、琥珀のピアス……あたしの。
「あら、アナタの瞳と同じ……ステキな色ね。 アナタは、とてもパートナーの方に愛されているのですね」
「そんな……ことは……」
そんなこと……あるのかな?
でもこれは潜入のための、疑われないための小道具……
「着け直してさしあげます」
有無を言わさず、おねーさんはあたしの耳に着け直してくれる。
「とても似合いますね。 もう、失くしたりしちゃダメよ」
耳元から、揺れる琥珀の感触が戻ってくる。
あっ……
喪失した何かを取り戻したような……
心の隙間が、ことん、と埋まったような音がした。
オジさまの顔が浮かんだ。
そうだ、オジさまが選んでくれたピアスなんだ。
投げてしまうなんてとんでもなかった。
失くしちゃいけないモノだった。
あ、う……戻ってきて、よかった……!
安堵なのか、後悔なのか。 涙が零れた。
「ぐすっ……」
「あらあら、どうしたのかしら。 話せるようなら、聞かせて」
――おねーさんの慈しみの感情色に、興味の色が差す。
そりゃ、ピアスを付け直しただけで泣いてちゃ気になるよね。
でも、今、口を開くと嗚咽が漏れてしまいそうで……
「そうそう。 これもアナタのモノですね。 傍に落ちていましたよ」
「……?」
そう言っておねーさんがあたしの目の前に差し出したのは、ハンカチに包まれた何かだった。
「開けますわね。 あら……サンドイッチ?」
なにゆえこんな所に?と、あたし自身も驚いたが、思い出した。
それは、あの時、黒髪令嬢から救い出したフルーツサンドだった。
ハンカチに大事そうに包まれていたという事は……
廊下に逃げ出す時もずっと持ってて、落ち込む前にハンカチに包んだって事?
全っ然、覚えてない!
完全に無意識でやってたんだろう。
自分の旺盛な食い意地っぷりに、あらためて恥ずかしくなった。
――グーッ
美味しそうな生クリームとイチゴに触発されて、さらにお腹も鳴ってしまった。
恥の二段重ね!
「食べてしまいなさい」
「……え?」
恥ずかしさに悶えるあたしに、おねーさんからの意外な提案。
この、まるで聖女のような紅い瞳のおねーさんは、明らかに爵位の高い貴族さまだ。
品の良さが一目で分かり、所作もすごく綺麗。
あの令嬢たちのように、意地汚い真似は絶対に許さないタイプだと思ったのだけれど。
「女の子が泣いたあとは、甘い物か美味しい物が一番ですわ。 きっと落ち着きます」
このおねーさんは、すごく断言口調だ。
人に命令しなれている感じが、やっぱりお貴族さまだ。
でも今は、それが助かる。
正しい許可をくれているようで……
「いただきます」
遠慮なく一口。
ふわふわの生クリームとイチゴの程よい酸味が、柔らかいパンと一緒に口いっぱいに広がった。
「ぐすっ……お゛いしい……」
鼻が詰まって、涙が滲む。
美味しさなのか、安心なのか、隣にいるおねーさんの優しさからなのか。
涙の理由は分からない。
「あら、良いお顔ね。 良かったわ」
泣きながらサンドイッチを頬張るあたしの隣で、おねーさんは自ら淹れたお茶を優雅に啜る。
食べ終わるまで何も言わず、傍にそっと居てくれた。
その、ただ寄り添ってくれている姿勢が、今のあたしにはありがたかった。
―――――――
「ふぅ……」
甘い物を摂取して、美味しいお茶も飲んで、なんだか満足してきた。
それと、誰かがいてくれる温かさ。
やっぱりあたしは一人はダメなんだ。
……とくに落ち込んでいる時は。
「落ち着いたかしら」
「はい、本当にありがとうございました!」
おねーさんの優しさも効いた。
こちらの顔を真っ直ぐ見て、微笑を浮かべる紅い瞳のおねーさん。
妙に艶っぽい。
「原因はやはり、そのシミですか」
「あ、ええと……」
おねーさんは、そう言ってあたしのドレスのワイン染みへと視線を落とす。
うーん……ワインを掛けられたのが原因であるとも言えるし、そうでもないとも言える。
ショックではあったけども、あれくらいで怯むようじゃ下町の香房は回せない。
あれは、突然の悪意に怯んでしまったのと……
「同情だって言われたんです」
「……同情」
「ええ。 あた……私のパートナーは、同情で、私と結婚したんだって……」
思わずおねーさんに吐露してしまった。
きっと誰かに、臆病なあたしを知って欲しかった。
ふと横目でおねーさんの方を見ると、やけに真剣な顔だった。
どうやらあたしの言葉を咀嚼しているようだ。
なんだか気恥ずかしくなって、あたしは再びお茶に手を付ける。
「アナタはそのパートナーの方を、愛している」
「えっ!? あ、はい!」
いくつかやりとりを素っ飛ばしたような、おねーさんの突然の強い言葉。
あたしは思わず肯定を返してしまう。
「アナタが愛しているのなら……同情だろうと、相手の意は関係ないのではなくて?」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「もっと、アナタ自身の愛情を信じることです」
おねーさんのルビー色の瞳が、じっとあたしを捉える。
エモパレを通さずとも、強い心が、揺らがない意志が伝わってくる。
きっとおねーさんは、旦那さんを強く愛しているんだろう。
自分の気持ちを信じる、か……
「アナタの蜂蜜色の瞳も、とても澄んでいてキレイですよ」
おねーさんが白い手袋の指先を伸ばし、あたしの耳元の琥珀をほんの少し指で揺らした。
そのピアスを信じなさい、と言われているようだった。
「へへ……」
おねーさんの気遣いが嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。
微笑みを返してくれるおねーさん。
落ち着いてきたので、おねーさんをあらためて観察する余裕も出てきた。
薄い金髪に鮮やかなルビー色の、意志の強い瞳。
真っ白いドレスに白い手袋がよく似合う。
清楚でどこか近寄りがたいその姿は、まるで物語に出てくる聖女みたいだった。
……実際は違うのだろうけども。
首元にある黒いチョーカーが、アクセントになっててとっても上品。
口元のほくろも、やけに色っぽく見えた。
「あら、ステキな笑顔ね。 元気が戻ったようで安心しました」
「はい、あらためて、ありがとうございました」
「礼には及びません。 わたくしも、興味があったから追ってきたのです」
……追ってきた?
「……あの、追ってきたって?」
「あの令嬢方にワインを掛けられているアナタを、遠くから見ていました」
「あ、あはは……お見苦しい所をお見せしまして」
見ていて気分の良いモノではなかったと思う。
「えっと……洗礼だって言われました。 平民のあたしはこの場には相応しくないって……」
「平民……やっぱり市井の方だったのですね」
「ああっ! 大変申し訳ございません!!」
やっばっ! すっかり忘れてた!
あたし……名乗ってない!!
「申し遅れました! 私は、ヴァルグレイ・ゼオファルド騎士爵の妻、ハルネと申します!」
慌てて立ち上がってご挨拶の膝折礼。 深々と膝と頭を下げる。
どう見てもおねーさんは高位の貴族。
……やってしまった。
もう一度お茶を掛けられるくらいは覚悟した。
「……ゼオファルド」
おねーさんはあたしの失態はまるで気にしていないようだった。
それよりも家名が気になったようだ。
あれ? もしかして、オジさまを知ってる?
……って、知られてても全然おかしくないか。
「わたくしの方も名乗っていませんでしたね」
ドレスの裾を持ち、流れるような動作でカーテシーを見せる。
まるでお手本みたいに綺麗で、思わず見惚れた。
「リセリーナ・アルテノット男爵夫人です。 お見知りおきを、ハルネさん」
呆けも一瞬、あたしは一気に目を覚ます。
アルテノット男爵……って、アルテノットぉっ!?
今、目の前にいるのは、今日あたし達が探っていた人物の一人。
エドリック・アルテノット男爵の、奥さんだった。


