好きでいっぱい

カフェ・ルーチェでの散歩を終えた翌日。
私はいつもより少し早く目が覚めた。

昨日の帰り道のことを思い出す。
手をつないだ温かさ。
雨上がりの風。
隣を歩く足音。

胸の奥が、また静かに満たされていく。

「……今日も会えるのかな」

恋人になったのに、まだ自分から連絡する勇気はない。
でも、会いたい気持ちは昨日よりずっと強かった。



仕事を終えて外へ出ると、空は薄い雲に覆われていた。
雨は降りそうで降らない。
そんな曖昧な天気が、今の自分みたいだと思う。

カフェの前まで来ると、扉の向こうからコーヒーの香りが漂ってきた。

「……入ろう」

小さく息を吸って、扉を開ける。

「いらっしゃい」

悠真さんが、昨日と同じ笑顔で迎えてくれた。
その笑顔を見るだけで、胸が少し温かくなる。

「今日も来てくれて嬉しいです」

「……来たくなったので」

言葉にすると照れくさい。
でも嘘じゃなかった。

「ちょうどいいものがあります」

悠真さんはカウンターの下から、一冊のノートを取り出した。

見覚えのある表紙。
二人で書き続けてきたレシピノートだった。

「新しいページ、作りませんか?」

「新しいページ……?」

「恋人になった記念に」

その言葉に、胸が跳ねた。

恋人。
まだ慣れない響き。
でも嫌いじゃない。

「……何を書けばいいんですか?」

「何でもいいですよ。今日のことでも、好きな味でも」

悠真さんは照れたように笑った。

「雨宮さんの字、好きなんです」

心臓がうるさくなる。
そんなことを言われたのは初めてだった。

「じゃあ……少しだけ」

私はペンを受け取った。

ページを開く。
白い紙が、静かに私を待っている。

何を書こう。
迷いながら、ゆっくり文字を置く。

『雨上がりの散歩、とても楽しかったです。
また一緒に歩きたいです。』

書き終えると、胸が少し熱くなった。
こんなふうに素直な言葉を書くのは、初めてかもしれない。

「……見てもいいですか?」

悠真さんがそっと覗き込む。
私は少しだけ頷いた。

読み終えた悠真さんは、静かに笑った。

「嬉しいです」

その声が、昨日より少しだけ近く感じた。



「じゃあ、僕も書きますね」

悠真さんはペンを取り、私の文字の隣にゆっくり書き始めた。

『雨宮さんと歩く帰り道が、一番好きです。
また一緒に歩いてください。』

読み終えた瞬間、胸がぎゅっとなる。

昨日の帰り道の温かさが、また蘇る。

「……はい」

小さく答えると、悠真さんは照れたように笑った。

「これからも、ページ増やしましょうね」

「……はい」

ノートの白いページは、まだたくさん残っている。
その余白が、これからの時間を静かに示しているようだった。



帰り道。
空は曇りのまま。
雨は降らなかった。

でも心の中は、昨日より少しだけ“好きでいっぱい”になっていた。