玄関の扉が閉まった。
「……どうぞ。」
「……お邪魔します。」
神崎はやけに緊張した声で答えた。
一度来たことのある部屋のはずなのに。
今日はあのときとはまるで違う。
以前は、酔った陽菜子を送り届けただけだった。
けれど今日は。
恋人として、陽菜子に招かれてここにいる。
神崎は玄関で靴を脱ぎながら、何度も深く息を吐いていた。
「紅夜くん?」
「はい。」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」
「……無理です。」
即答だった。
陽菜子は思わず笑う。
「前にも来たことあるじゃないですか。」
「先ほども申し上げましたが、状況が違います。」
神崎は真剣な顔で答えた。
「今は陽菜子さんの恋人として、この部屋に入っています。」
「……。」
改めて言われると、陽菜子まで恥ずかしくなる。
「と、とりあえず座っててください。飲み物持ってきますね。」
「はい。」
陽菜子は逃げるようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けながら、自分の頬へ手を当てる。
(……私も緊張してきた。)
さっきまでは、ただもっと一緒にいたいと思っただけだった。
けれど。
自分の部屋に恋人と二人きり。
そう意識した途端、急に恥ずかしくなってきた。
「紅夜くん、コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「陽菜子さんが淹れてくださるなら、なんでも。」
「なんでもが一番困るんです。」
「では、紅茶でお願いします。」
「はい。」
陽菜子は紅茶を淹れ、二つのカップを持ってリビングへ戻った。
神崎はソファに座っていた。
ただし。
背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に置いている。
まるで取引先の応接室にでもいるようだった。
「紅夜くん。」
「はい。」
「もっと楽にしていいですよ?」
「十分楽にしています。」
「全然見えませんけど。」
陽菜子は笑いながら、その隣へ腰を下ろした。
その瞬間。
神崎の肩がびくっと跳ねる。
「……近かったですか?」
「いえ。」
「じゃあ、なんで固まったんですか?」
「陽菜子さんが隣に座ったので。」
「今日ずっと隣にいたじゃないですか。」
「ここは陽菜子さんの家です。」
「そんなに違います?」
「全然違います。」
真顔で言われ、陽菜子はまた笑ってしまった。
二人で紅茶を飲みながら、今日の水族館の話をする。
クラゲが綺麗だったこと。
神崎が水槽ではなく陽菜子ばかり見ていたこと。
次はどこへ行こうかという話。
話しているうちに、先ほどまでの緊張は少しずつ薄れていった。
けれど。
カップが空になっても。
二人とも立ち上がろうとはしなかった。
陽菜子は隣にいる神崎を見る。
「……紅夜くん。」
「はい。」
「今日、来てくれてありがとうございます。」
「こちらこそ、誘っていただけて嬉しかったです。」
神崎は柔らかく笑った。
「本当は俺も、まだ帰りたくなかったので。」
陽菜子の胸が、どくんと鳴る。
「……同じですね。」
「はい。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、時計の音だけが響く。
陽菜子は自分の膝の上へ視線を落とした。
神崎ともっと一緒にいたいと思った。
手をつないでみたいと思った。
抱きしめてみたいと思った。
少しずつ。
少しずつ。
神崎との距離が近くなっている。
それが嬉しい。
陽菜子はそっと顔を上げた。
すると。
神崎もこちらを見ていた。
視線が重なる。
「……紅夜くん?」
「…………。」
いつもなら何か言ってくれる神崎が、今日は黙ったままだった。
その視線が、いつもと少し違う。
陽菜子の胸が大きく鳴る。
神崎がゆっくりと身体をこちらへ向けた。
「陽菜子さん。」
「……はい。」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「なんですか?」
神崎は一度、視線を伏せた。
そして。
覚悟を決めたように、もう一度陽菜子を見つめる。
「……キスしても、いいですか?」
「…………。」
陽菜子の思考が止まった。
顔が一気に熱くなる。
「キ、キス……。」
「……はい。」
神崎の耳も真っ赤だった。
「嫌なら、もちろんしません。」
陽菜子は神崎を見る。
普段なら、陽菜子が少し近づいただけで大騒ぎする人。
手をつなぐだけでも震えて。
ハグをしただけで限界だと言っていた。
そんな神崎が。
今、自分から一歩近づこうとしている。
陽菜子は胸元をぎゅっと握った。
「……嫌じゃないです。」
神崎の目がわずかに見開かれる。
陽菜子は恥ずかしさに耐えきれず、少し視線を伏せた。
「紅夜くんなら……いいです。」
「…………。」
神崎の喉が、ごくりと鳴った。
「陽菜子さん。」
「はい。」
神崎の手が、ゆっくりと陽菜子の頬へ伸びる。
触れる直前で、一度止まった。
それでも陽菜子が逃げないことを確認してから、そっと頬へ触れる。
温かい手だった。
陽菜子は少しだけ目を閉じた。
次の瞬間。
神崎がゆっくりと顔を近づける。
そして。
二人の唇が、そっと重なった。

すぐには離れなかった。
触れているだけの優しいキスのまま、数秒が過ぎる。
やがて神崎がゆっくりと顔を離した。
「…………。」
「…………。」
静寂。
陽菜子は恐る恐る目を開けた。
目の前には、完全に固まった神崎がいた。
「……紅夜くん?」
「…………。」
「大丈夫ですか?」
次の瞬間。
神崎は勢いよく両手で顔を覆った。
「ギャアアアアアッ!!」
「ええっ!?」
神崎はそのままソファからずり落ち、床へ膝をついた。
「む、無理です!! 陽菜子さんとキスした!!」
「ちょ、紅夜くん!?」
「人生最推しと!!恋人として!!キスを!!」
「声大きいです!隣に聞こえます!」
陽菜子が慌てて神崎の肩を掴む。
しかし、それがさらに悪かった。
「ギャアッ!!今触らないでください!!処理能力を超えています!!」
「紅夜くんからキスしたんじゃないですか!」
「そうです!!なんで俺はそんな恐れ多いことを!!」
「自分で聞いたんでしょう?」
「許可をいただけたので理性が一瞬だけ仕事を放棄しました!!」
「もう……。」
陽菜子は呆れながらも、笑ってしまった。
さっきまで。
神崎がいつもとは違って見えて、少しだけ緊張していた。
けれど。
やっぱり、この人はこの人だった。
「紅夜くん。」
「……はい。」
床に膝をついたまま、神崎が顔を上げる。
陽菜子はそんな神崎へ柔らかく笑いかけた。
「私、嬉しかったですよ。」
「…………。」
神崎が固まる。
「紅夜くんからしてくれて。」
「…………陽菜子さん。」
みるみるうちに、また神崎の顔が真っ赤になっていく。
「今日も世界一可愛いです……。」
「ふふっ。」
会社では、誰に対しても冷静で。
営業成績はいつもトップクラス。
近寄りがたいほど完璧で。
みんなからは、冷たい人だと思われている。
そんな神崎紅夜が。
私の前では。
手をつないだだけで震えて。
抱きしめただけで限界になって。
キスをしただけで床へ崩れ落ちる。
陽菜子は笑いながら、神崎へ手を差し出した。
「ちくわくん。立ってください。」
「……はい。」
神崎はその手を取る。
その瞬間にも、また少しだけ頬を赤くした。
恋人になっても。
手をつないでも。
抱きしめても。
キスをしても。
やっぱり、ちくわくんは――
私の限界オタクでした。
「……どうぞ。」
「……お邪魔します。」
神崎はやけに緊張した声で答えた。
一度来たことのある部屋のはずなのに。
今日はあのときとはまるで違う。
以前は、酔った陽菜子を送り届けただけだった。
けれど今日は。
恋人として、陽菜子に招かれてここにいる。
神崎は玄関で靴を脱ぎながら、何度も深く息を吐いていた。
「紅夜くん?」
「はい。」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。」
「……無理です。」
即答だった。
陽菜子は思わず笑う。
「前にも来たことあるじゃないですか。」
「先ほども申し上げましたが、状況が違います。」
神崎は真剣な顔で答えた。
「今は陽菜子さんの恋人として、この部屋に入っています。」
「……。」
改めて言われると、陽菜子まで恥ずかしくなる。
「と、とりあえず座っててください。飲み物持ってきますね。」
「はい。」
陽菜子は逃げるようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けながら、自分の頬へ手を当てる。
(……私も緊張してきた。)
さっきまでは、ただもっと一緒にいたいと思っただけだった。
けれど。
自分の部屋に恋人と二人きり。
そう意識した途端、急に恥ずかしくなってきた。
「紅夜くん、コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「陽菜子さんが淹れてくださるなら、なんでも。」
「なんでもが一番困るんです。」
「では、紅茶でお願いします。」
「はい。」
陽菜子は紅茶を淹れ、二つのカップを持ってリビングへ戻った。
神崎はソファに座っていた。
ただし。
背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に置いている。
まるで取引先の応接室にでもいるようだった。
「紅夜くん。」
「はい。」
「もっと楽にしていいですよ?」
「十分楽にしています。」
「全然見えませんけど。」
陽菜子は笑いながら、その隣へ腰を下ろした。
その瞬間。
神崎の肩がびくっと跳ねる。
「……近かったですか?」
「いえ。」
「じゃあ、なんで固まったんですか?」
「陽菜子さんが隣に座ったので。」
「今日ずっと隣にいたじゃないですか。」
「ここは陽菜子さんの家です。」
「そんなに違います?」
「全然違います。」
真顔で言われ、陽菜子はまた笑ってしまった。
二人で紅茶を飲みながら、今日の水族館の話をする。
クラゲが綺麗だったこと。
神崎が水槽ではなく陽菜子ばかり見ていたこと。
次はどこへ行こうかという話。
話しているうちに、先ほどまでの緊張は少しずつ薄れていった。
けれど。
カップが空になっても。
二人とも立ち上がろうとはしなかった。
陽菜子は隣にいる神崎を見る。
「……紅夜くん。」
「はい。」
「今日、来てくれてありがとうございます。」
「こちらこそ、誘っていただけて嬉しかったです。」
神崎は柔らかく笑った。
「本当は俺も、まだ帰りたくなかったので。」
陽菜子の胸が、どくんと鳴る。
「……同じですね。」
「はい。」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、時計の音だけが響く。
陽菜子は自分の膝の上へ視線を落とした。
神崎ともっと一緒にいたいと思った。
手をつないでみたいと思った。
抱きしめてみたいと思った。
少しずつ。
少しずつ。
神崎との距離が近くなっている。
それが嬉しい。
陽菜子はそっと顔を上げた。
すると。
神崎もこちらを見ていた。
視線が重なる。
「……紅夜くん?」
「…………。」
いつもなら何か言ってくれる神崎が、今日は黙ったままだった。
その視線が、いつもと少し違う。
陽菜子の胸が大きく鳴る。
神崎がゆっくりと身体をこちらへ向けた。
「陽菜子さん。」
「……はい。」
「一つ、お願いしてもいいですか?」
「なんですか?」
神崎は一度、視線を伏せた。
そして。
覚悟を決めたように、もう一度陽菜子を見つめる。
「……キスしても、いいですか?」
「…………。」
陽菜子の思考が止まった。
顔が一気に熱くなる。
「キ、キス……。」
「……はい。」
神崎の耳も真っ赤だった。
「嫌なら、もちろんしません。」
陽菜子は神崎を見る。
普段なら、陽菜子が少し近づいただけで大騒ぎする人。
手をつなぐだけでも震えて。
ハグをしただけで限界だと言っていた。
そんな神崎が。
今、自分から一歩近づこうとしている。
陽菜子は胸元をぎゅっと握った。
「……嫌じゃないです。」
神崎の目がわずかに見開かれる。
陽菜子は恥ずかしさに耐えきれず、少し視線を伏せた。
「紅夜くんなら……いいです。」
「…………。」
神崎の喉が、ごくりと鳴った。
「陽菜子さん。」
「はい。」
神崎の手が、ゆっくりと陽菜子の頬へ伸びる。
触れる直前で、一度止まった。
それでも陽菜子が逃げないことを確認してから、そっと頬へ触れる。
温かい手だった。
陽菜子は少しだけ目を閉じた。
次の瞬間。
神崎がゆっくりと顔を近づける。
そして。
二人の唇が、そっと重なった。

すぐには離れなかった。
触れているだけの優しいキスのまま、数秒が過ぎる。
やがて神崎がゆっくりと顔を離した。
「…………。」
「…………。」
静寂。
陽菜子は恐る恐る目を開けた。
目の前には、完全に固まった神崎がいた。
「……紅夜くん?」
「…………。」
「大丈夫ですか?」
次の瞬間。
神崎は勢いよく両手で顔を覆った。
「ギャアアアアアッ!!」
「ええっ!?」
神崎はそのままソファからずり落ち、床へ膝をついた。
「む、無理です!! 陽菜子さんとキスした!!」
「ちょ、紅夜くん!?」
「人生最推しと!!恋人として!!キスを!!」
「声大きいです!隣に聞こえます!」
陽菜子が慌てて神崎の肩を掴む。
しかし、それがさらに悪かった。
「ギャアッ!!今触らないでください!!処理能力を超えています!!」
「紅夜くんからキスしたんじゃないですか!」
「そうです!!なんで俺はそんな恐れ多いことを!!」
「自分で聞いたんでしょう?」
「許可をいただけたので理性が一瞬だけ仕事を放棄しました!!」
「もう……。」
陽菜子は呆れながらも、笑ってしまった。
さっきまで。
神崎がいつもとは違って見えて、少しだけ緊張していた。
けれど。
やっぱり、この人はこの人だった。
「紅夜くん。」
「……はい。」
床に膝をついたまま、神崎が顔を上げる。
陽菜子はそんな神崎へ柔らかく笑いかけた。
「私、嬉しかったですよ。」
「…………。」
神崎が固まる。
「紅夜くんからしてくれて。」
「…………陽菜子さん。」
みるみるうちに、また神崎の顔が真っ赤になっていく。
「今日も世界一可愛いです……。」
「ふふっ。」
会社では、誰に対しても冷静で。
営業成績はいつもトップクラス。
近寄りがたいほど完璧で。
みんなからは、冷たい人だと思われている。
そんな神崎紅夜が。
私の前では。
手をつないだだけで震えて。
抱きしめただけで限界になって。
キスをしただけで床へ崩れ落ちる。
陽菜子は笑いながら、神崎へ手を差し出した。
「ちくわくん。立ってください。」
「……はい。」
神崎はその手を取る。
その瞬間にも、また少しだけ頬を赤くした。
恋人になっても。
手をつないでも。
抱きしめても。
キスをしても。
やっぱり、ちくわくんは――
私の限界オタクでした。



