冷徹営業トップは私の限界オタクでした


一通り館内を回り、水族館を出る頃には夕方になっていた。
二人は近くの店で夕食を取り、そのまま陽菜子の家へ向かう。
空はすっかり暗くなっていた。

「今日はありがとうございました。」

「こちらこそ。楽しかったです。」

陽菜子が笑う。

「また行きましょうね。」

「もちろんです。陽菜子さんがお望みなら、毎週でも。」

「毎週は紅夜くんが仕事できなくなっちゃいますよ。」

「では隔週で。」

「そういう問題じゃないです。」

二人で笑いながら歩いていると、見慣れたマンションが見えてきた。
もうすぐ着いてしまう。
そう思った瞬間。
陽菜子の歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。
今日一日、ずっと一緒にいた。
水族館へ行って。
ご飯を食べて。
手をつないで歩いて。
十分すぎるほど楽しかった。
なのに。

(……もう終わりなんだ。)

少しだけ、寂しい。
以前なら、休日に誰かと出かけてもこんなことは思わなかった。
楽しかったね。
またね。
それで普通に帰れた。
けれど今は。
もう少しだけ、一緒にいたいと思ってしまう。

「陽菜子さん?」

気づけば、神崎が心配そうにこちらを見ていた。

「疲れましたか?」

「いえ。」

陽菜子は首を横に振る。

「じゃあ、どうしました?」

「……もう着いちゃうなって思って。」

「え?」

神崎が目を瞬く。
陽菜子自身、口にしてから恥ずかしくなった。

「今日、すごく楽しかったから……。」

頬が熱くなっていく。

「もう少し一緒にいたかったなって。」

「…………。」

神崎が足を止めた。
陽菜子も立ち止まる。

「紅夜くん?」

「……すみません。」

神崎は胸元を押さえた。

「今の言葉だけで一週間は生きられます。」

「一週間だけなんですか?」

「では一か月。」

「そういう意味じゃないです。」

陽菜子は思わず笑った。
けれど。
二人の間には、どこか名残惜しい空気が残ったままだった。
やがてマンションの前へ着く。
つないでいた手を離す。
途端に。
さっきまであった温もりがなくなった。
陽菜子は自分の手を見つめた。

「それでは、陽菜子さん。」

神崎が少し寂しそうに笑う。

「今日は本当にありがとうございました。」

「こちらこそ。」

「また会社で。」

「はい。」

神崎が背を向けようとする。

「あ……。」

陽菜子は思わず声を上げた。
神崎が振り返る。

「どうしました?」

「紅夜くん。」

「はい。」

陽菜子は少し迷った。
言っていいのだろうか。
恋人なら。
これくらい普通なのかもしれない。
でも、自分たちにとってはまだ普通ではない。
それでも――。
もっと近づきたい。
陽菜子は意を決して神崎を見上げた。

「あの……。」

「はい。」

「恋人って……ハグしたりしますよね?」

「…………。」

神崎の表情が消えた。

「紅夜くん?」

「今……なんと?」

「だから、ハグです。」

「…………。」

神崎が固まったまま動かない。
陽菜子はだんだん不安になってきた。

「嫌でした?」

「違います!!」

神崎が勢いよく否定した。

「絶対に違います!」

「び、びっくりした。」

「ただ……。」

神崎は口元を押さえ、顔を真っ赤にした。

「陽菜子さんからそんな提案をされる日が来るとは思っていなかったので……。」

「私だって、ちょっと恥ずかしいんですよ。」

「すみません。」

陽菜子も頬を赤らめながら、神崎を見る。

「……してみたいです。」

「っ……。」

神崎の身体がびくっと震えた。
しばらくして。
神崎が大きく息を吸う。

「……本当に、いいんですか?」

「はい。」

神崎は一歩、陽菜子へ近づいた。
けれど。
そのまま動かない。

「紅夜くん?」

「どこまで近づいていいのか分かりません。」

「ハグですよ?」

「分かっています。ただ、陽菜子さんに俺から触れるという事実が重大すぎて……。」

陽菜子は困ったように笑った。
そして。
自分から一歩近づいた。

神崎の胸元へ、そっと額を寄せる。

「――っ!」

神崎の身体が大きく震えた。

「これなら、できますか?」

「……無理かもしれません。」

「えぇ?」

「ですが、やります。」

覚悟を決めたような声だった。
神崎の腕が、おそるおそる陽菜子の背中へ回る。
壊れ物に触れるような、優しい抱きしめ方だった。
陽菜子も神崎の背中へ腕を回す。
思っていたよりも、ずっと近い。
胸元から伝わってくる体温。

そして。
どくどくと激しく鳴っている神崎の心臓。



「紅夜くん。」

「……はい。」

「すごい心臓鳴ってます。」

「聞かないでください……。」

「ふふっ。」

陽菜子は小さく笑った。
それでも、離れようとはしなかった。
神崎の腕の中は温かくて。
不思議なくらい、落ち着いた。
今日一日ずっと一緒にいたのに。
まだ離れたくない。
そんな気持ちが、胸の奥に浮かんでくる。
少しして。
陽菜子はゆっくりと身体を離した。
神崎は顔を真っ赤にしたまま固まっている。

「……紅夜くん?」

「本日はもう限界です。」

「そんなに?」

「手をつないで、水族館へ行って、そのうえ陽菜子さんから『もう少し一緒にいたい』と言われて、最後にハグです。」

神崎は胸元を押さえた。

「今日が命日でも悔いはありません。」

「縁起でもないこと言わないでください。」

陽菜子は笑った。
そして、もう一度マンションを見上げる。
帰らなくてはいけない。
けれど。
神崎と別れるのが、さっきよりももっと寂しく感じた。

(……もっと一緒にいたい。)

その気持ちを胸に残したまま。

「じゃあ……また明日。」

「はい。また明日、陽菜子さん。」

二人はようやく別れた。
けれど陽菜子は、マンションへ入ってからも。
しばらく胸に残る神崎の温もりを、忘れることができなかった。