恋人になっても、会社での二人はこれまでとほとんど変わらなかった。
二人で昼食に出かける日もあれば、恵美や寺内と時間が合えば、みんなで社員食堂へ行くこともあった。
隠しているつもりはなかった。
ただ、付き合い始めたばかりで、わざわざ周囲へ報告するタイミングもなかった。
そんなある日。
営業部から提出された領収書に不備があり、陽菜子は確認のため営業部を訪れていた。
「寺内さん、ここです。この欄に取引先名を書いてください。」
「これ?前も書いた気がするんだけどなぁ。」
「前も同じところで間違えてましたよ。」
「春宮ちゃん、よく覚えてるね。」
寺内のデスクの横に立ち、陽菜子は領収書を指差しながら説明する。
書類を一緒に覗き込んでいるせいで、二人の距離は自然と近くなっていた。
そのとき、営業部の扉が開いた。
外回りから戻った神崎は、真っ先に陽菜子の姿を見つけた。
寺内と並び、一枚の領収書を覗き込んでいる。
しかも、近い。
神崎の眉がわずかに動いた。
次の瞬間。
「陽菜子さん。」
営業部の空気が、一瞬止まった。
陽菜子も動きを止める。
「……あ。」
会社では、ずっと『春宮さん』と呼ばれていた。
二人きりのときだけだった呼び方を、神崎は完全に口にしてしまっていた。
「……あれ?」
寺内か陽菜子と神崎を交互に見た。
「二人、付き合った?」
あまりにも平然と聞かれ、陽菜子の顔が一気に熱くなる。
「……はい。つい最近。」
「へぇ。」
寺内は神崎を見て、にやりと笑った。
「やっと付き合ったんだ。」
「……何が『やっと』だ。」
神崎は少しムッとしたように答える。
「ええっ!?」
少し離れたデスクから、大きな声が飛んできた。
振り返ると、佐藤が目を丸くしてこちらを見ていた。
「春宮さんと神崎さん、付き合ったんすか!?」
「佐藤くん、聞いてたんですか?」
「聞こえました!」
佐藤は勢いよく立ち上がった。
「いつからですか? もうデートとかしたんですか?」
「えっと……この前の休みに、紫陽花を見に行きました。」
「おおー!」
佐藤は興味津々で身を乗り出した。
「じゃあ、手とかつないだりしたんすね?」
「いえ。まだです。」
「……え?」
佐藤の動きが止まった。
寺内も一瞬黙ったあと、神崎を見る。
「まだ?」
「……まだです。」
神崎がわずかに視線をそらした。
「俺なんて、彼女と付き合って初日で手つなぎましたよ。」
「えっ、佐藤くん彼女いるんですか?」
今度は陽菜子が驚いて目を丸くした。
「いますよ!」
佐藤は当然のように答える。
「あれ、俺言ってませんでしたっけ?」
「初めて聞きました。」
「そうでしたっけ?」
佐藤はきょとんと首を傾げた。
「しかも俺――」
「佐藤。」
神崎の低い声が飛ぶ。
「はい?」
「それ以上言うな。」
「えっ、なんでですか?」
「言うな。」
「はい……。」
佐藤は素直に口を閉じた。
その隣で、寺内だけが肩を震わせている。
「……お前ら、付き合う前と何が変わったんだよ。」
「呼び方が変わりました。」
神崎は真顔で答えた。
一瞬の沈黙。
「ぶはっ!」
とうとう寺内は堪えきれず、声を上げて笑った。
「それだけ!?」
「それだけではありません。」
「じゃあ何?」
神崎は答えようとして、止まった。
陽菜子も考える。
恋人になった。
下の名前で呼ぶようになった。
けれど、それ以外は。
二人そろって黙り込んだ。
寺内は腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ……! 本当に付き合ってんの、お前ら!」
「付き合っています。」
神崎だけは、妙に真剣な顔で言い切った。

二人で昼食に出かける日もあれば、恵美や寺内と時間が合えば、みんなで社員食堂へ行くこともあった。
隠しているつもりはなかった。
ただ、付き合い始めたばかりで、わざわざ周囲へ報告するタイミングもなかった。
そんなある日。
営業部から提出された領収書に不備があり、陽菜子は確認のため営業部を訪れていた。
「寺内さん、ここです。この欄に取引先名を書いてください。」
「これ?前も書いた気がするんだけどなぁ。」
「前も同じところで間違えてましたよ。」
「春宮ちゃん、よく覚えてるね。」
寺内のデスクの横に立ち、陽菜子は領収書を指差しながら説明する。
書類を一緒に覗き込んでいるせいで、二人の距離は自然と近くなっていた。
そのとき、営業部の扉が開いた。
外回りから戻った神崎は、真っ先に陽菜子の姿を見つけた。
寺内と並び、一枚の領収書を覗き込んでいる。
しかも、近い。
神崎の眉がわずかに動いた。
次の瞬間。
「陽菜子さん。」
営業部の空気が、一瞬止まった。
陽菜子も動きを止める。
「……あ。」
会社では、ずっと『春宮さん』と呼ばれていた。
二人きりのときだけだった呼び方を、神崎は完全に口にしてしまっていた。
「……あれ?」
寺内か陽菜子と神崎を交互に見た。
「二人、付き合った?」
あまりにも平然と聞かれ、陽菜子の顔が一気に熱くなる。
「……はい。つい最近。」
「へぇ。」
寺内は神崎を見て、にやりと笑った。
「やっと付き合ったんだ。」
「……何が『やっと』だ。」
神崎は少しムッとしたように答える。
「ええっ!?」
少し離れたデスクから、大きな声が飛んできた。
振り返ると、佐藤が目を丸くしてこちらを見ていた。
「春宮さんと神崎さん、付き合ったんすか!?」
「佐藤くん、聞いてたんですか?」
「聞こえました!」
佐藤は勢いよく立ち上がった。
「いつからですか? もうデートとかしたんですか?」
「えっと……この前の休みに、紫陽花を見に行きました。」
「おおー!」
佐藤は興味津々で身を乗り出した。
「じゃあ、手とかつないだりしたんすね?」
「いえ。まだです。」
「……え?」
佐藤の動きが止まった。
寺内も一瞬黙ったあと、神崎を見る。
「まだ?」
「……まだです。」
神崎がわずかに視線をそらした。
「俺なんて、彼女と付き合って初日で手つなぎましたよ。」
「えっ、佐藤くん彼女いるんですか?」
今度は陽菜子が驚いて目を丸くした。
「いますよ!」
佐藤は当然のように答える。
「あれ、俺言ってませんでしたっけ?」
「初めて聞きました。」
「そうでしたっけ?」
佐藤はきょとんと首を傾げた。
「しかも俺――」
「佐藤。」
神崎の低い声が飛ぶ。
「はい?」
「それ以上言うな。」
「えっ、なんでですか?」
「言うな。」
「はい……。」
佐藤は素直に口を閉じた。
その隣で、寺内だけが肩を震わせている。
「……お前ら、付き合う前と何が変わったんだよ。」
「呼び方が変わりました。」
神崎は真顔で答えた。
一瞬の沈黙。
「ぶはっ!」
とうとう寺内は堪えきれず、声を上げて笑った。
「それだけ!?」
「それだけではありません。」
「じゃあ何?」
神崎は答えようとして、止まった。
陽菜子も考える。
恋人になった。
下の名前で呼ぶようになった。
けれど、それ以外は。
二人そろって黙り込んだ。
寺内は腹を抱えて笑い始めた。
「ははっ……! 本当に付き合ってんの、お前ら!」
「付き合っています。」
神崎だけは、妙に真剣な顔で言い切った。




