冷徹営業トップは私の限界オタクでした

夜、陽菜子は神崎と待ち合わせをしているイタリアンバーへ着いた。
すでに神崎は到着しており、店の前で待っていた。
神崎はスーツではなく、黒を基調とした私服姿だった。
その姿を見た瞬間、陽菜子は足を止めた。

――あの日と同じだ。

公園で初めて出会った夜と、よく似た格好だった。
胸が、どくんと大きく鳴った。
昨日までなら、『ちくわくんに似てる』としか思わなかったはずなのに。
今夜は、神崎がひどく格好よく見えた。

「陽菜子さん。」

陽菜子に気づいた神崎が、柔らかな笑顔を浮かべる。

「こんばんは。お待ちしていました。」

「こんばんは……。」

陽菜子は小さく頭を下げた。
まともに顔を見ることができない。

(どうしよう……。昨日までは普通に話せてたのに。)

恋だと気づいただけで、こんなにも違って見えるなんて思わなかった。

「陽菜子さん?」

「な、なんでもないです!」

不思議そうに覗き込まれ、陽菜子は慌てて顔をそらした。

「と、とりあえず入りましょう!」

「はい。」

二人は店へ入った。
以前と同じカウンター席に並んで座る。
あの夜と同じ店。同じ席。
隣にいるのも、同じ神崎。
けれど、陽菜子の気持ちだけが、あのときとはまるで違っていた。

注文した飲み物が運ばれてくる。
陽菜子はグラスを両手で持ったまま、何度も神崎を横目で見た。
今日ここへ来たのは、伝えたいことがあったからだ。
けれど――。

「陽菜子さん」

「はいっ!」

突然呼ばれ、肩が跳ねた。
神崎は少し緊張したように陽菜子を見つめていた。

「昨日、お電話で……俺に伝えたいことがあるとおっしゃっていましたよね。」

「……はい。」

陽菜子はグラスへ視線を落とした。
言わなきゃ。
そう思うのに、寺内から言われた言葉が頭をよぎる。

――恋じゃん。

途端に頬が熱くなった。

「私……。」

神崎が息を呑む。
陽菜子は勇気を振り絞るように顔を上げた。

「ちくわくんのこと、ずっと考えてみたんです。」

「……はい。」

「会えないと寂しいし、一緒にご飯を食べたいし、もっとちくわくんのことを知りたいって思って……。」

神崎の目が少しずつ見開かれていく。

「それで……分かったんです。」

陽菜子は胸元へ手を当てた。
心臓が痛いほど鳴っている。
本当は、その先まで言いたかった。
好きだと。

けれど――。

どうしても、その言葉だけが喉につかえて出てこなかった。

「私も……ちくわくんのファンになったみたいです。」

「…………。」

神崎が固まった。
数秒の沈黙。

「……俺の?」

「はい。」

陽菜子は照れくさそうに笑う。

「ちくわくんが私を推してくれてるみたいに、私もちくわくんを推してるんだなって。」

神崎はゆっくりと口元を覆った。

「陽菜子さんが……俺のファン……。」

みるみるうちに耳まで赤くなっていく。

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫ではありません……。」

神崎は片手で顔を覆ったまま俯いた。

「人生最推しから『ファンです』なんて言われて、平静でいられるわけが……。」

「ふふっ。」

いつもの神崎の反応に、陽菜子は思わず笑った。
けれど、胸の奥には、少しだけ引っかかるものが残っていた。
違う。
本当に伝えたかったことは、これじゃない。
自分は神崎の『ファン』になったわけではない。
もっと、違う。
神崎に特別な誰かができるのが嫌だった。
自分以外の女性と並んで歩くところなんて見たくなかった。
自分に向けてくれる笑顔を、ほかの誰かへ向けてほしくなかった。

――私は。

陽菜子はそっと神崎の横顔を見つめた。
この人に、私を見ていてほしい。

その後、二人はいつものように他愛のない話をした。
けれど、陽菜子の胸の奥には、言えなかった言葉がずっと残り続けていた。
店を出る頃には、夜もすっかり深くなっていた。

「今日はありがとうございました。」

神崎が嬉しそうに笑う。

「陽菜子さんが俺のファンだなんて……今日は一生忘れません。」

「……ちくわくん。」

「はい?」

陽菜子は少し迷ったあと、神崎を見上げた。

「少しだけ、寄り道してもいいですか?」

「もちろんです。」

「行きたいところがあるんです。」