その夜。
家に帰ってからも、昼休みに恵美から言われた言葉が、陽菜子の頭から離れなかった。
――それ、本当に『ファンと推される側』だけの感情?
陽菜子はベッドの上に座り、膝を抱えながら考える。
神崎のことを、自分はどう思っているのだろう。
思い返せば、最初に出会ったのはあの夜だった。
公園で怪我をしていた神崎を見つけて、放っておけずに手当てをした。
一人で帰らせるのも心配で、そのまま彼の家まで送り届けた。
そして、明るい部屋で初めてその顔をちゃんと見たとき――
亡くなった愛犬のちくわくんに、驚くほど似ていると思った。
髪の色も、鋭い目元も、大きな口元も、のぞく八重歯まで。
思わず「ちくわくん」と呼んでしまった。
まさか、その『ちくわくん』が同じ会社の人だとは思わなかった。
しかも、営業部でトップを走るほどのエースだった。
それだけではない。
神崎は、自分が彼を知るずっと前から、陽菜子のことを知っていた。
愛犬のちくわくんが亡くなってから、家へ帰るのがつらくなった。
頼まれた仕事を断れない性格もあって、以前より残業することが増えていた。
そんな夜、デスクの上には時々、小さなチョコレートと付箋が置かれていた。
『お疲れ様です』
名前も書かれていない、たった一言。
誰が置いてくれているのか分からなかった。
それでも――。
疲れているときにその文字を見るだけで、胸が少し温かくなった。
誰かが自分の頑張りを見てくれている。
そう思うだけで、もう少しだけ頑張れた。
それを置いてくれていたのが神崎だったと知ったとき。
「……嬉しかったな」
陽菜子は小さく呟いた。
営業部へ応援に行くことになってからは、神崎と一緒にいる時間が一気に増えた。
分からないことがあれば隣で助けてくれた。
困ったときには真っ先に駆けつけてくれた。
疲れていればお茶を淹れてくれた。
一緒にランチへ行った。
休日に偶然会えば、カフェで話をした。
映画にも行った。
雨の日には、一つの傘の下を一緒に歩いた。
いつの間にか、神崎と過ごした思い出がこんなにも増えている。
そして今は――。
会えないと、寂しい。
毎日でも会いたいと思う。
一緒にご飯を食べたい。
神崎が自分以外の女性と楽しそうに話していると、胸の奥が少しだけもやもやする。
陽菜子は胸元へそっと手を当てた。
「……これって」
神崎は、自分のことを『推し』だと言っていた。
会えるだけで嬉しい。
一緒にいられるだけで幸せ。
もっと相手のことを知りたい。
それなら、自分が神崎に感じているこの気持ちも――。
「もしかして私も……」
陽菜子は少しだけ首を傾げる。
「ちくわくんのファンになっちゃったのかな……?」
陽菜子はベッドから勢いよく立ち上がった。
「この気持ち、ちくわくんに伝えなきゃ!」
そうと決まれば、じっとしてはいられない。
陽菜子はスマートフォンを手に取り、深く考える暇もなく神崎へ電話をかけた。
呼び出し音が一度鳴っただけで、すぐに電話がつながる。
「陽菜子さん。お電話ありがとうございます。どうかしましたか?」
聞き慣れた神崎の声が耳元から聞こえてきた。

「あの、私……ちくわくんに伝えたいことがあります!」
「……俺に、ですか?」
「はい!」
陽菜子は力強く答える。
「明日の夜、お時間ありますか?」
電話の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちた。
「もちろんです。陽菜子さんのためなら、いくらでも時間を作りますよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
電話越しでも分かるほど、陽菜子の声は明るかった。
「じゃあ、明日の夜に。場所はまた連絡しますね」
「はい。分かりました」
「それじゃあ、おやすみなさい。ちくわくん」
「……おやすみなさい、陽菜子さん」
通話が切れた。
神崎はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
静まり返った部屋。
数秒後。
「……俺に、伝えたいこと?」
神崎はゆっくりとスマートフォンを下ろした。
陽菜子から、自分に伝えたいことがある。
しかも電話ではなく、わざわざ会って話したいという。
(何だ……?)
神崎の心臓が、どくどくと大きく鳴り始める。
(何か困っていることが? いや、それなら電話でも……)
そこまで考えたところで、別の可能性が頭をよぎった。
「…………まさか」
神崎は両手で顔を覆った。
(いやいやいや。期待するな俺。陽菜子さんに限ってそんな……)
顔を覆ったまま、耳だけがみるみる赤くなっていく。
「明日の夜……」
二、三歩歩き、また立ち止まる。
「無理だ。明日まで平静でいられる気がしない……」
営業先でどんな難しい商談を任されても動じない男が、一通の電話だけで完全に冷静さを失っていた。
家に帰ってからも、昼休みに恵美から言われた言葉が、陽菜子の頭から離れなかった。
――それ、本当に『ファンと推される側』だけの感情?
陽菜子はベッドの上に座り、膝を抱えながら考える。
神崎のことを、自分はどう思っているのだろう。
思い返せば、最初に出会ったのはあの夜だった。
公園で怪我をしていた神崎を見つけて、放っておけずに手当てをした。
一人で帰らせるのも心配で、そのまま彼の家まで送り届けた。
そして、明るい部屋で初めてその顔をちゃんと見たとき――
亡くなった愛犬のちくわくんに、驚くほど似ていると思った。
髪の色も、鋭い目元も、大きな口元も、のぞく八重歯まで。
思わず「ちくわくん」と呼んでしまった。
まさか、その『ちくわくん』が同じ会社の人だとは思わなかった。
しかも、営業部でトップを走るほどのエースだった。
それだけではない。
神崎は、自分が彼を知るずっと前から、陽菜子のことを知っていた。
愛犬のちくわくんが亡くなってから、家へ帰るのがつらくなった。
頼まれた仕事を断れない性格もあって、以前より残業することが増えていた。
そんな夜、デスクの上には時々、小さなチョコレートと付箋が置かれていた。
『お疲れ様です』
名前も書かれていない、たった一言。
誰が置いてくれているのか分からなかった。
それでも――。
疲れているときにその文字を見るだけで、胸が少し温かくなった。
誰かが自分の頑張りを見てくれている。
そう思うだけで、もう少しだけ頑張れた。
それを置いてくれていたのが神崎だったと知ったとき。
「……嬉しかったな」
陽菜子は小さく呟いた。
営業部へ応援に行くことになってからは、神崎と一緒にいる時間が一気に増えた。
分からないことがあれば隣で助けてくれた。
困ったときには真っ先に駆けつけてくれた。
疲れていればお茶を淹れてくれた。
一緒にランチへ行った。
休日に偶然会えば、カフェで話をした。
映画にも行った。
雨の日には、一つの傘の下を一緒に歩いた。
いつの間にか、神崎と過ごした思い出がこんなにも増えている。
そして今は――。
会えないと、寂しい。
毎日でも会いたいと思う。
一緒にご飯を食べたい。
神崎が自分以外の女性と楽しそうに話していると、胸の奥が少しだけもやもやする。
陽菜子は胸元へそっと手を当てた。
「……これって」
神崎は、自分のことを『推し』だと言っていた。
会えるだけで嬉しい。
一緒にいられるだけで幸せ。
もっと相手のことを知りたい。
それなら、自分が神崎に感じているこの気持ちも――。
「もしかして私も……」
陽菜子は少しだけ首を傾げる。
「ちくわくんのファンになっちゃったのかな……?」
陽菜子はベッドから勢いよく立ち上がった。
「この気持ち、ちくわくんに伝えなきゃ!」
そうと決まれば、じっとしてはいられない。
陽菜子はスマートフォンを手に取り、深く考える暇もなく神崎へ電話をかけた。
呼び出し音が一度鳴っただけで、すぐに電話がつながる。
「陽菜子さん。お電話ありがとうございます。どうかしましたか?」
聞き慣れた神崎の声が耳元から聞こえてきた。

「あの、私……ちくわくんに伝えたいことがあります!」
「……俺に、ですか?」
「はい!」
陽菜子は力強く答える。
「明日の夜、お時間ありますか?」
電話の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちた。
「もちろんです。陽菜子さんのためなら、いくらでも時間を作りますよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
電話越しでも分かるほど、陽菜子の声は明るかった。
「じゃあ、明日の夜に。場所はまた連絡しますね」
「はい。分かりました」
「それじゃあ、おやすみなさい。ちくわくん」
「……おやすみなさい、陽菜子さん」
通話が切れた。
神崎はしばらく、スマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
静まり返った部屋。
数秒後。
「……俺に、伝えたいこと?」
神崎はゆっくりとスマートフォンを下ろした。
陽菜子から、自分に伝えたいことがある。
しかも電話ではなく、わざわざ会って話したいという。
(何だ……?)
神崎の心臓が、どくどくと大きく鳴り始める。
(何か困っていることが? いや、それなら電話でも……)
そこまで考えたところで、別の可能性が頭をよぎった。
「…………まさか」
神崎は両手で顔を覆った。
(いやいやいや。期待するな俺。陽菜子さんに限ってそんな……)
顔を覆ったまま、耳だけがみるみる赤くなっていく。
「明日の夜……」
二、三歩歩き、また立ち止まる。
「無理だ。明日まで平静でいられる気がしない……」
営業先でどんな難しい商談を任されても動じない男が、一通の電話だけで完全に冷静さを失っていた。



