土曜日。
陽菜子は気分転換に、街へ買い物に出かけていた。
何軒か店を回り、紙袋をいくつか抱えながら歩いていると、突然ぽつりと頬に冷たいものが当たった。
「え?」
空を見上げた次の瞬間、雨粒が一気に強くなる。
「うそ……雨?」
朝、天気予報を確認せずに家を出た陽菜子は、傘を持ってきていなかった。
慌てて近くの雑居ビルの軒下へ駆け込む。
「結構降ってきちゃったな……。」
手に持っていた紙袋が濡れていないことを確認し、陽菜子はほっと息をついた。
いつ止むのだろう。
そう思いながら雨の降る通りを眺めていると――。
「……陽菜子さん?」
聞き覚えのある声がした。
陽菜子は勢いよく振り返る。
そこには、スーツ姿で傘を差した神崎が立っていた。
一週間、聞くことのなかった声。
その姿を見た瞬間、陽菜子の胸が大きく跳ねた。
「……ちくわくん。」
神崎も驚いたように目を見開いている。
「こんなところでお会いするとは思いませんでした。」
「ちくわくん……今日はお仕事だったんですか?」
「はい。ランチの会食がありまして。今、その帰りです」
神崎は陽菜子の手元にある紙袋へ目を向け、それから軒下へ視線を移した。
「陽菜子さん、傘は?」
「今日、忘れてしまって……。」
「そうだったんですね。」
神崎はスマートフォンを取り出し、天気予報を確認する。
「しばらく止みそうにないみたいですね。」
「そうなんですか……。」
陽菜子は困ったように雨を見つめた。
すると神崎が、少しだけ傘を持ち上げた。
「よろしければ、一緒に行きませんか?」
「え……。」
「この傘なら、二人でも入れますので。」
陽菜子は一瞬嬉しそうな顔をしたものの、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも……ちくわくんの邪魔したくないです。」
「邪魔なんかではありません。」
神崎は迷うことなく答えた。
「この後の予定もありませんし。それに……。」
一瞬だけ言葉を止める。
「一週間ぶりに会えたので、もう少し一緒にいたいです。」
「……一緒に?」
言ったあとになって、神崎自身も自分の言葉に気づいた。
(……俺、今何を言った?)
耳がじわじわと熱くなっていく。
しかし、陽菜子はそんな神崎の動揺には気づかず、小さく笑った。
「じゃあ……お願いします。」
「はい」
神崎が差している傘の中へ、陽菜子が入る。
一つの傘の下に二人。
肩が触れそうなほど近い距離に、神崎の身体がわずかに強張った。
(近い……。)
けれど、不思議と以前のように取り乱すことはなかった。
それよりも。
一週間ぶりに陽菜子が隣を歩いていることが、ただ嬉しかった。
「陽菜子さん、どこかへ行く途中だったんですか?」
「はい。この先にある雑貨屋さんに行こうと思っていて。」
「では、行きましょう。」
「ありがとうございます。」
二人は同じ傘の下、ゆっくりと歩き始めた。
雨が傘を叩く音が、一定のリズムで響いている。
しばらく歩いたところで、陽菜子がぽつりと口を開いた。
「今週、忙しかったんですね。」
「はい。少し外回りを増やしていました。」
「……そうですよね。」
陽菜子の声が少しだけ小さくなった。
「先月は、私のそばにいてくれたから……営業成績が落ちてしまったって聞きました。」
神崎が足を止めかけた。
「陽菜子さん。」
「私が営業部にいた間、ちくわくん、ずっと私のことを気にかけてくれてたじゃないですか。」
陽菜子は雨に濡れた道路へ視線を落とした。
「だから、私のせいなのかなって……。」
「違います。」
神崎はすぐに否定した。
「陽菜子さんのせいではありません。」
陽菜子が顔を上げる。
「あなたのそばにいると決めたのは、俺です。」
神崎の声は真剣だった。
「外回りを減らしたのも、ランチを一緒に食べたのも、全部俺が自分で決めたことです。陽菜子さんが責任を感じる必要はありません。」
「……ちくわくん」
「むしろ、俺のせいで陽菜子さんに気を遣わせてしまったなら、申し訳ありません。」
陽菜子は首を横に振った。
「違うんです」
少しだけ迷ったあと、陽菜子は続けた。
「私こそ……ランチ、断ってすみませんでした。」
神崎はしばらく黙っていた。
雨音だけが二人の間に響く。
「謝らないでください。」
そう言ってから、神崎は少しだけ視線をそらした。
「ただ……。」
「?」
「少し、寂しかったです。」
陽菜子の目が大きくなる。
「月曜日も火曜日も断られて、その後は会うこともなくなって……。」
神崎は小さく笑った。
「避けられているのかと思っていました。」
「違います!」
陽菜子は思わず声を大きくした。
「ちくわくんに会いたくなかったわけじゃないです。」
神崎が陽菜子を見る。
陽菜子は自分でも驚くほど素直に、言葉を続けていた。
「仕事の邪魔をしたくなかっただけで……。」
そして少しだけ俯く。
「私も……寂しかったです。」
「え?」
今度は神崎が目を見開いた。
「私もちくわくんに会えなくて、寂しかったです」
雨音の中でも、その言葉だけははっきりと神崎の耳に届いた。
神崎は目を見開き、しばらく何も言えなかった。
陽菜子が、自分に会えなくて寂しかった。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
「だから……」
陽菜子は少しだけ迷うように視線を落とした。
「毎日は難しくても、お互い無理のない日は……また一緒にランチしませんか?」
神崎は一瞬、言葉を失った。
「ちくわくんのお仕事に影響が出るのは嫌です。でも、だからって全然会えなくなるのも……やっぱり寂しいので」
陽菜子は少し照れくさそうに笑った。
「お互い仕事に余裕がある日だけ、一緒に食べましょう?」
「……もちろんです」
神崎は嬉しさを隠しきれず、柔らかく笑った。
「本当は毎日でもご一緒したいですが……ちゃんと仕事もします」
「ふふっ。それなら安心です」
陽菜子が楽しそうに笑う。
その笑顔を見つめながら、神崎の胸にまた不思議な感情が広がった。
陽菜子と会えることが嬉しい。
一緒に昼食を取れることが嬉しい。
それは今までずっと、推しと過ごせるからだと思っていた。
けれど――。
「ちくわくん?」
「……いえ。何でもありません」
神崎は小さく首を横に振った。
一つの傘の下、二人は再び歩き始めた。
肩が触れそうな距離を、今度は少しも遠いとは感じなかった。

陽菜子は気分転換に、街へ買い物に出かけていた。
何軒か店を回り、紙袋をいくつか抱えながら歩いていると、突然ぽつりと頬に冷たいものが当たった。
「え?」
空を見上げた次の瞬間、雨粒が一気に強くなる。
「うそ……雨?」
朝、天気予報を確認せずに家を出た陽菜子は、傘を持ってきていなかった。
慌てて近くの雑居ビルの軒下へ駆け込む。
「結構降ってきちゃったな……。」
手に持っていた紙袋が濡れていないことを確認し、陽菜子はほっと息をついた。
いつ止むのだろう。
そう思いながら雨の降る通りを眺めていると――。
「……陽菜子さん?」
聞き覚えのある声がした。
陽菜子は勢いよく振り返る。
そこには、スーツ姿で傘を差した神崎が立っていた。
一週間、聞くことのなかった声。
その姿を見た瞬間、陽菜子の胸が大きく跳ねた。
「……ちくわくん。」
神崎も驚いたように目を見開いている。
「こんなところでお会いするとは思いませんでした。」
「ちくわくん……今日はお仕事だったんですか?」
「はい。ランチの会食がありまして。今、その帰りです」
神崎は陽菜子の手元にある紙袋へ目を向け、それから軒下へ視線を移した。
「陽菜子さん、傘は?」
「今日、忘れてしまって……。」
「そうだったんですね。」
神崎はスマートフォンを取り出し、天気予報を確認する。
「しばらく止みそうにないみたいですね。」
「そうなんですか……。」
陽菜子は困ったように雨を見つめた。
すると神崎が、少しだけ傘を持ち上げた。
「よろしければ、一緒に行きませんか?」
「え……。」
「この傘なら、二人でも入れますので。」
陽菜子は一瞬嬉しそうな顔をしたものの、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも……ちくわくんの邪魔したくないです。」
「邪魔なんかではありません。」
神崎は迷うことなく答えた。
「この後の予定もありませんし。それに……。」
一瞬だけ言葉を止める。
「一週間ぶりに会えたので、もう少し一緒にいたいです。」
「……一緒に?」
言ったあとになって、神崎自身も自分の言葉に気づいた。
(……俺、今何を言った?)
耳がじわじわと熱くなっていく。
しかし、陽菜子はそんな神崎の動揺には気づかず、小さく笑った。
「じゃあ……お願いします。」
「はい」
神崎が差している傘の中へ、陽菜子が入る。
一つの傘の下に二人。
肩が触れそうなほど近い距離に、神崎の身体がわずかに強張った。
(近い……。)
けれど、不思議と以前のように取り乱すことはなかった。
それよりも。
一週間ぶりに陽菜子が隣を歩いていることが、ただ嬉しかった。
「陽菜子さん、どこかへ行く途中だったんですか?」
「はい。この先にある雑貨屋さんに行こうと思っていて。」
「では、行きましょう。」
「ありがとうございます。」
二人は同じ傘の下、ゆっくりと歩き始めた。
雨が傘を叩く音が、一定のリズムで響いている。
しばらく歩いたところで、陽菜子がぽつりと口を開いた。
「今週、忙しかったんですね。」
「はい。少し外回りを増やしていました。」
「……そうですよね。」
陽菜子の声が少しだけ小さくなった。
「先月は、私のそばにいてくれたから……営業成績が落ちてしまったって聞きました。」
神崎が足を止めかけた。
「陽菜子さん。」
「私が営業部にいた間、ちくわくん、ずっと私のことを気にかけてくれてたじゃないですか。」
陽菜子は雨に濡れた道路へ視線を落とした。
「だから、私のせいなのかなって……。」
「違います。」
神崎はすぐに否定した。
「陽菜子さんのせいではありません。」
陽菜子が顔を上げる。
「あなたのそばにいると決めたのは、俺です。」
神崎の声は真剣だった。
「外回りを減らしたのも、ランチを一緒に食べたのも、全部俺が自分で決めたことです。陽菜子さんが責任を感じる必要はありません。」
「……ちくわくん」
「むしろ、俺のせいで陽菜子さんに気を遣わせてしまったなら、申し訳ありません。」
陽菜子は首を横に振った。
「違うんです」
少しだけ迷ったあと、陽菜子は続けた。
「私こそ……ランチ、断ってすみませんでした。」
神崎はしばらく黙っていた。
雨音だけが二人の間に響く。
「謝らないでください。」
そう言ってから、神崎は少しだけ視線をそらした。
「ただ……。」
「?」
「少し、寂しかったです。」
陽菜子の目が大きくなる。
「月曜日も火曜日も断られて、その後は会うこともなくなって……。」
神崎は小さく笑った。
「避けられているのかと思っていました。」
「違います!」
陽菜子は思わず声を大きくした。
「ちくわくんに会いたくなかったわけじゃないです。」
神崎が陽菜子を見る。
陽菜子は自分でも驚くほど素直に、言葉を続けていた。
「仕事の邪魔をしたくなかっただけで……。」
そして少しだけ俯く。
「私も……寂しかったです。」
「え?」
今度は神崎が目を見開いた。
「私もちくわくんに会えなくて、寂しかったです」
雨音の中でも、その言葉だけははっきりと神崎の耳に届いた。
神崎は目を見開き、しばらく何も言えなかった。
陽菜子が、自分に会えなくて寂しかった。
その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
「だから……」
陽菜子は少しだけ迷うように視線を落とした。
「毎日は難しくても、お互い無理のない日は……また一緒にランチしませんか?」
神崎は一瞬、言葉を失った。
「ちくわくんのお仕事に影響が出るのは嫌です。でも、だからって全然会えなくなるのも……やっぱり寂しいので」
陽菜子は少し照れくさそうに笑った。
「お互い仕事に余裕がある日だけ、一緒に食べましょう?」
「……もちろんです」
神崎は嬉しさを隠しきれず、柔らかく笑った。
「本当は毎日でもご一緒したいですが……ちゃんと仕事もします」
「ふふっ。それなら安心です」
陽菜子が楽しそうに笑う。
その笑顔を見つめながら、神崎の胸にまた不思議な感情が広がった。
陽菜子と会えることが嬉しい。
一緒に昼食を取れることが嬉しい。
それは今までずっと、推しと過ごせるからだと思っていた。
けれど――。
「ちくわくん?」
「……いえ。何でもありません」
神崎は小さく首を横に振った。
一つの傘の下、二人は再び歩き始めた。
肩が触れそうな距離を、今度は少しも遠いとは感じなかった。



