冷徹営業トップは私の限界オタクでした

午前十時―― 。
待ち合わせ時間の十分前には、神崎はすでに駅前に到着していた。
(早すぎたか……いや、陽菜子さんを待たせるよりはいい)
スマートフォンで時刻を確認していると、遠くから聞き慣れた声がした。
「ちくわくーん!お待たせ。」

神崎が顔を上げる。
人混みの向こうから、陽菜子がこちらへ手を振りながら駆け寄ってきた。
その姿を見た瞬間、神崎の目が大きく見開かれる。
ふんわりとした白いロングワンピースに、淡い色のパンプス。
いつものオフィス姿とはまるで違う、柔らかな雰囲気だった。



(……待ってください。)

神崎は言葉を失った。

(その服装は……どう見てもデートでは!?)

もちろん、陽菜子がそんなつもりで選んだのかは分からない。
それでも神崎の目には、完全にデートへ来た女性にしか見えなかった。

「ちくわくん?」

目の前まで来た陽菜子が、不思議そうに首を傾げる。

「……陽菜子さん。かわいすぎます。」

神崎は鼻を片手で覆った。
本当に鼻血が出そうだった。

「ありがとうございます。ちくわくんにそう言ってもらえるなんて嬉しいです。」

陽菜子は照れくさそうに髪を耳へかけ、ふわりと笑った。

(ギャアッ!!朝から尊いッ!!)

神崎は心の中で絶叫しながら、どうにか平静を保つ。

「では、行きましょうか」

「はい!」

二人は並んで映画館へ向かった。
歩き始めると、自然と肩が触れそうなほど近い距離になる。
神崎は横を歩く陽菜子を意識しないよう、ひたすら前だけを見つめた。

(近い……。陽菜子さんが近い……。落ち着け。これはただ一緒に映画を観に行くだけ。デートではない。デートでは……)

そう自分へ言い聞かせながら、映画館へ到着した。
館内へ入ると、二人は上映中の映画が並ぶ案内板の前に立った。

「どれにしましょうか?」

陽菜子がポスターを眺める。
神崎も一つずつ確認していった。
恋愛映画。

(無理。隣に陽菜子さんがいる状態で恋愛映画なんて観られない。)

ホラー映画。

(陽菜子さんが怖がったら……いや、それはそれで……いやダメだ。)

アニメ映画。

(陽菜子さんが興味あるかわからないな。)

そして最後に目に入ったのは、オタクの青年が主人公のコメディ映画だった。
推しを前にすると冷静さを失ってしまう主人公が、さまざまな騒動を起こすという内容らしい。
神崎はポスターをじっと見つめた。

「陽菜子さん。これにしませんか?」

「あ、面白そうですね!」

陽菜子も楽しそうにポスターを見る。

「これにしましょう」

二人はチケットを購入し、売店でポップコーンとドリンクを買った。

「ポップコーン、一つでいいですよね?」

「え?」

「二人で食べればいいかなって」

陽菜子は当然のように言った。
神崎の動きが止まる。

(ひ、一つを……二人で……?)

「ちくわくん?」

「は、はい! 一つで大丈夫です!」

大きめのポップコーンを一つ買い、二人は上映室へ入った。
客はまばらで、二人の周囲にも空席が目立っていた。
指定された席へ並んで腰を下ろす。
陽菜子が二人の間の肘掛けへポップコーンを置いた。

「これなら二人とも取りやすいですね」

「そ、そうですね」

やがて照明がゆっくりと暗くなった。
映画が始まる。
スクリーンには、憧れの女性を遠くから見つめる主人公の姿が映し出されていた。
普段は無口で冷静なのに、その女性を見つけた瞬間だけ取り乱す。
推しから声をかけられれば固まり、手が触れればその場にしゃがみ込む。
陽菜子が隣で小さく笑った。

「ふふっ」

神崎は嫌な予感がした。
しばらくすると、映画の主人公が推しからプレゼントを渡され、その場で膝から崩れ落ちた。

「ふふふっ……」

とうとう陽菜子が声を押し殺して笑い始める。

「この人……」

陽菜子が神崎のほうへ顔を寄せ、小声で言った。

「ちくわくんみたいですね」

「…………」

神崎はスクリーンを見つめたまま固まった。
否定できない。
むしろ、自分のほうがひどい自信すらあった。

「そう……かもしれませんね」

「やっぱり」

陽菜子は楽しそうに笑う。
その笑顔を横目で見ているだけで、神崎には映画の内容などほとんど頭へ入ってこなかった。
しばらくして、神崎はポップコーンへ手を伸ばした。
同時に、陽菜子も手を伸ばす。
指先が触れた。

「……っ!」

神崎の肩が大きく跳ねる。
陽菜子は何事もなかったようにポップコーンを一つつまんだ。

「ごめんなさい。先にどうぞ」

「い、いえ! 陽菜子さんこそ!」

神崎は慌てて手を引っ込めた。
心臓が痛いほど鳴っている。

(触れた……)

スクリーンでは主人公が何か面白いことを言っているらしく、館内から笑い声が上がった。
しかし、神崎には何一つ聞こえていなかった。

(今、陽菜子さんの指と俺の指が……)

隣では、何も知らない陽菜子が楽しそうに映画を見ている。
神崎はそっと自分の指先を見つめた。

(今日、この指は洗いたくない……)

神崎は一人、暗闇の中で静かに葛藤していた。