記憶の欠片



 小学三年生の春。


 天気予報は、嵐だった。


 その日お父さんは仕事に出ていた。


 「すぐ帰るからな」


 そう言っていつもみたいに頭を撫でてくれた。


 ────それが、最後だった。



 その日私はいつも通り塾に通っていた。


 帰り道。


 隣には湊音くんがいた。


 「今日の宿題、多すぎじゃない?」


 そんな他愛ない会話をしながら歩いていた。


 その時だった。


 遠くから、騒がしい音が聞こえた。


 人の声、車の音。


 そして。


 救急車のサイレン。


 雨に濡れた道路へ赤い光が鈍く反射する。


 嫌な予感がして足が止まる。


 周りの人の隙間から見えたもの。


 ぐったりと倒れている人。


 傘。


 濡れたアスファルトにじんわりと滲む、赤。


 ──そして、お父さん。


 「……え?」


 声にならない声が喉の奥で詰まる。


 見たくなかった。


 認めたくなかった。


 だから私は走った。


 少しでも遠くへ。


 何も見えない場所へ。


 「星宮!」


 後ろから湊音くんの声が聞こえる。


 でも、遠い。


 どんどん遠くなる。


 冷たい雨が、容赦なく顔に叩きつける。


 涙なのか雨なのか、もう自分でも分からない。


 視界がぐちゃぐちゃに滲んで、前がよく見えなくて。


 「……やだ……」


 肺が張り裂けそうで、息がうまく吸えない。


 頭の中が真っ暗になって、何も考えられない。


 考えたら、壊れてしまう気がして。


 立ち止まったら、お父さんのいない世界を認めてしまう気がして。


 私はただ走った。


 視界が揺れて涙が滲む。


 前が見えなくて、石に躓いた。


 アスファルトに手をつく。


 膝がじんと熱くなる。


 擦りむいたところから、血が滲んでいた。


 痛い。


 でもそれすら、今は遠く感じた。


 世界に、私ひとりだけが残されたみたいで。


 もう何も感じたくなかった。



 その時。


 頭上から、雨音が少しだけ消えた。


 顔を上げると、そこには傘を差し出す湊音くんがいた。


 ずぶ濡れのまま、肩で息をしている。


 「星宮……」


 息を切らせながらも、限りなく優しい声で、私の名前を呼んだ。


 その瞬間。


 目の奥が焼けるように熱くなった。


 張り詰めていた糸がぷつりと切れて、涙がぼろぼろと止めどなく溢れてくる。


 私は崩れるように彼にしがみついた。


 「湊音くん……」


 震える声で。


 ずっと心の奥に閉じ込めていた言葉を、涙と一緒に吐き出した。


 「私……これから、どうしたらいいのかな」


 もう、朝が来ても「いってきます」を言う相手はいない。


 夜になっても「おかえり」が返ってくることはない。


 その事実が、暗い海の底に沈んでいくみたいに、私の胸を冷たく満たしていく。


 どれくらい時間が経ったのか分からなかった。


 雨音だけが、静かに響いていた。


 私は何度も泣いて。


 何度も湊音くんの優しさに甘えてしまった。


 でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。


 ゆっくり顔を上げる。


 涙を拭って、無理やり笑顔を作った。


 「……ごめん」


 湊音くんが顔を上げる。


 「私、行かないと」


 お父さんが待っているかもしれない。


 そう思う自分と、もう二度と目を覚まさないことを知っている自分が、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


 その言葉に彼は何か言おうとした。


 でも、私の方が先に立ち上がった。


 濡れた制服。


 震える足。


 それでも歩かなきゃいけないと思った。


 これ以上、誰かに迷惑をかけたくなかった。


 「……っ星宮」


 呼ばれた声に一瞬だけ足が止まる。


 振り返りそうになる。


 でも。


 私は振り返らなかった。


 振り返ったら、もう立てなくなる気がしたから。


 そのまま静かに、雨の中を歩き出した。