高校の卒業式を終えてから、数日が経っていた。
窓の外では、まだ少し冷たい風に桜の枝が揺れている。
段ボール箱に本を詰めながら、ふと手を止めた。
「……これ、どうしよう」
部屋の隅。
ずっと使っていた棚の、一番上。
そこには、二つの小さな瓶が並んでいた。
一つは、淡い月の欠片が散りばめられた瓶。
もう一つは、小さな星屑が詰まった瓶。
どちらも透明なガラスの中で、春の日差しを受けて淡く輝いている。
そっと手を伸ばし、指先で星屑の瓶に触れる。
――懐かしい。
そう思った。
けれど、どうして大切にしているのか。
その答えは、もうずっと前に知っていたはずなのに。
「……慧」
自然と、その名前が口からこぼれた。
その瞬間。
胸の奥に、ひとつの記憶が浮かんだ。
放課後の帰り道。
隣を歩く、黒い髪の男の子。
手のひらに乗せた小さな瓶。
『愛梨は…星だな』
『慧は月だね』
『2つとも、俺らの苗字に入ってるなんて、すごいな』
『うん、私たちだけの、特別なもの』
――ああ。
そうだった。
私にとっての星は、私自身。
そして、月は――。
「慧」
その声に重なるように、玄関のチャイムが鳴った。
慌てて小瓶を元に戻し、部屋を出る。
玄関を開けると、そこには見慣れた姿があった。
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
「まだ終わってない?」
「……うん」
慧が部屋を覗き込む。
積み上がった段ボール。
整理途中の本。
そして、棚にある二つのキーホルダー。
慧の視線が止まった。
「……それ」
「うん」
慧が、少しだけ目を細めた。
「二つとも、ずっと棚に飾ってたんだね」
「もちろん」
そう言うと、慧は少し笑った。
その笑顔を見つめる。
高校生活の最後に見た顔。
記憶を取り戻してから何度も見てきた顔。
そして――昔から、ずっと好きだった顔。
「ねえ、慧」
「ん?」
「これ……持ってて」
私は星屑の小瓶を差し出した。
慧が目を瞬く。
「俺に?」
「うん」
「いいの?」
「だって、これ……慧に渡すものだった気がするから」
慧はしばらく黙っていた。
そして、両手で大切そうに小瓶を受け取った。
「……じゃあ、これは俺が持ってる」
「うん」
「愛梨は?」
「私はこっち」
私は月の小瓶を手に取った。
すると慧が、小さく笑った。
「逆じゃない?」
「え?」
「月が俺で、星が愛梨なんだろ?」
「うん」
「じゃあ、それ俺が持ってるの変じゃない?」
「……でも」
私は少し考えてから、笑った。
「慧が私の星を持ってて、私が慧の月を持つのも……なんかいいなって」
「……」
「だめ?」
「……だめじゃない」
慧は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
それを見て、思わず笑ってしまう。
「照れてる?」
「照れてない」
「絶対照れてる」
「……うるさい」
そう言いながら、慧の口元も少し笑っていた。
そのときだった。
星屑の瓶を持っていた慧の手が、ふと止まる。
「……愛梨」
「なに?」
「これ」
慧が瓶を裏返す。
瓶の底に、小さく貼られた紙があった。
そこには、少し古びた文字が残っていた。
――『いつか、また二つ並べよう』
「……」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「これ……」
「覚えてる?」
「……ううん」
そう答えた直後。
頭の奥に、光が差した。
夕暮れの教室。
窓際に並べられた二つの瓶。
隣に座る慧。
まだ幼さの残る横顔。
『離れてても、これを見たら思い出せるかな』
『何を?』
『……俺たちのこと』
『忘れないよ』
――あの時守れなかった約束。
だけど。
なくした記憶の中にあったものは、消えてしまったわけじゃなかった。
どこかにずっと残っていた。
星屑の瓶も。
月の瓶も。
そして――慧への気持ちも。
「……思い出した」
「愛梨?」
「少しだけ」
目に涙が浮かぶ。
慧は何も言わず、隣に座った。
「昔の私たち……瓶を並べてた」
「うん」
「慧が、いつかまた並べようって」
「……覚えてたんだ」
私は首を振る。
「瓶が、覚えててくれた」
慧は少しだけ目を伏せた。
そして二人は、机の上に瓶を並べた。
月。
星。
二つの光が隣り合う。
その瞬間、不思議なくらい自然に思えた。
ずっとこうだったのだ。
星は月のそばにいて。
月は星を照らして。
離れてしまった時間さえ、二人を完全には引き離せなかった。
「……綺麗」
「うん」
慧が私を見つめる。
その瞳が、いつもより少し柔らかかった。
私は少しだけ慧との距離を縮めた。
肩が触れる。
それだけで、心臓が跳ねる。
「慧」
「ん?」
「高校、卒業したね」
「したな」
「なんか……実感ない」
「俺も」
「これから、どうなるんだろうね」
慧は少し考えてから言った。
「……変わらないだろ」
「え?」
「俺たちは俺たちだから」
私は思わず目を細める。
「そっか」
「うん」
「じゃあ……これからも一緒?」
「当たり前」
その答えが嬉しくて、私は笑った。
すると慧が、少し困ったような顔をする。
「……そんな顔で笑わないで」
「なんで?」
「……我慢できなくなる」
「何を?」
「……」
慧は答えなかった。
ただ、私の頬にそっと手を添える。
「嫌だったら言って」
私は小さく首を振った。
「言わない」
「……そっか」
慧が少しだけ顔を近づける。
私もゆっくりと目を閉じた。
唇が触れる。
一瞬だけ。
それでも、胸の奥まで温かくなるようなキスだった。
離れたあと、二人とも何も言えない。
「……慧」
「……ん」
「もう一回」
「……」
慧が驚いたように私を見る。
「愛梨から言うの、ずるい」
「だって……もう、忘れたくないから」
慧は目を細めた。
「……そうだな」
今度は、さっきより少し長くて、深い。
窓の外では、春の風が吹いている。
机の上では、月と星が並んでいる。
「……愛梨」
吐息混じりの愛おしい声が、私を呼ぶ。
「なに?」
「引っ越しの準備、まだ終わってないだろ」
「……うん」
「……続きやるよ」
「えー……」
「終わらないと困るだろ」
「休憩、もう一回」
「さっきしたばっか」
「してない」
「した」
「慧が勝手に終わらせただけでしょ」
「十分だろ?」
慧はため息をついて、本を段ボールに詰め続けている。
机の上には、月と星の瓶が並んだまま。
窓からの光を受けて、二つの瓶がきらめいている。
「慧」
「うん」
返事はするのに、手は止めない。
それがなんだか悔しくて、慧の隣にしゃがみ込んだ。
「ねえ」
「何」
「顔、こっち向けて」
「……なんで」
「いいから」
慧が仕方なさそうに顔を向ける。
その瞬間、身を乗り出して、自分からキスをした。
触れるだけの、本当に短いキス。
「……っ」
慧が目を見開く。
「何して」
「休憩」
彼に笑いかける。
でもその笑顔が、少しだけ震えていたことに、慧は気づいていた。
「愛梨」
「なに」
「どうした?」
「どうもしない」
「嘘ついてる」
「……」
慧の手が、私の手首をそっと掴む。
その手が少し熱くて、目を伏せた。
「卒業して、引っ越して、離れるわけじゃないのに」
「うん」
「それなのに、なんか……」
「寂しい?」
「……そうかもしれない」
慧は少し黙ってから、手首を引いた。
バランスを崩した体が、慧の胸に倒れ込む。
そのまま、床に押し倒される形になった。
背中にフローリングの冷たさを感じる。
でもそれ以上に、目の前に慧の顔があって、心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「…慧」
「……嫌?」
「……嫌じゃ、ない」
慧はそれだけ確認すると、私の両手首をそっと床に押さえつけた。
逃げ場をなくすように、でも決して乱暴じゃなく。
ただ、私がどこにも行かないように。
「さっきの続き」
「え?」
「休憩の」
慧の顔が近づく。
今度は触れるだけじゃなかった。
柔らかく重なる唇。
そこから伝わる熱に、頭の奥がじんわりと痺れていく。
「ん……」
小さく声が漏れた。
慧は一瞬息を止めて、それからもっと深く口づけた。
角度を変えながら、何度も確かめるように。
意味もなく慧の手を握り返す。
小瓶のことなんて、頭から消えていた。
今はただ、慧の存在だけが全てだった。
どれくらいそうしていたのか。
ようやく唇が離れたとき、私は息をするのも忘れていた。
「は……っ」
「…苦しかった?」
「……ちょっと」
「ごめん」
「やっぱり慧、意地悪」
慧が苦笑する。
その表情に、私もつられて笑った。
「…慧」
「……ん」
「ここ、床だから」
「……わかってる」
そう言いながら、慧は少し体を起こした。
けれど、まだ離れない。
むしろ私の髪に指を絡めて、額に自分の額を寄せる。
「愛梨」
「なに」
「覚悟して」
「……何の」
「ずっと一緒にいる覚悟」
胸が、きゅうっと音を立てた気がした。
「そんなの」
「……」
「とっくにしてるよ」
「そっか」
「慧こそ、覚悟してる?」
「……してるに決まってるだろ」
慧がもう一度、私の唇を塞いだ。
今度はもっとゆっくり。
もっと確かめるように。
そのまま、慧の手が腰に触れる。
「……慧」
見下ろす慧の表情は、いつもの穏やかさとは少し違っていた。
「ごめん。今日は……たぶん、余裕ない」
頬が熱くなる。
それでも逃げることはせず、言葉の代わりに、自分から慧の首に腕を回した。
窓の外では、桜が風に揺れている。
机の上では、月と星が寄り添っている。
どちらか一つではなく。
二つが並んでいるからこそ、あの日の記憶が完成する。
これから先、どんな未来が待っていても。
もう、忘れない。
忘れてしまったとしても。
きっとまた、思い出せる。
だって――。
星は月を見つける。
月もまた、星を見つけるから。
その夜。
二人の部屋の片隅には、月の瓶と星屑の瓶が並んでいた。
月と、星。
かつて別々の場所にあった二つの光は、今度こそ同じ場所で輝いていた。
窓の外では、まだ少し冷たい風に桜の枝が揺れている。
段ボール箱に本を詰めながら、ふと手を止めた。
「……これ、どうしよう」
部屋の隅。
ずっと使っていた棚の、一番上。
そこには、二つの小さな瓶が並んでいた。
一つは、淡い月の欠片が散りばめられた瓶。
もう一つは、小さな星屑が詰まった瓶。
どちらも透明なガラスの中で、春の日差しを受けて淡く輝いている。
そっと手を伸ばし、指先で星屑の瓶に触れる。
――懐かしい。
そう思った。
けれど、どうして大切にしているのか。
その答えは、もうずっと前に知っていたはずなのに。
「……慧」
自然と、その名前が口からこぼれた。
その瞬間。
胸の奥に、ひとつの記憶が浮かんだ。
放課後の帰り道。
隣を歩く、黒い髪の男の子。
手のひらに乗せた小さな瓶。
『愛梨は…星だな』
『慧は月だね』
『2つとも、俺らの苗字に入ってるなんて、すごいな』
『うん、私たちだけの、特別なもの』
――ああ。
そうだった。
私にとっての星は、私自身。
そして、月は――。
「慧」
その声に重なるように、玄関のチャイムが鳴った。
慌てて小瓶を元に戻し、部屋を出る。
玄関を開けると、そこには見慣れた姿があった。
「お邪魔します」
「いらっしゃい」
「まだ終わってない?」
「……うん」
慧が部屋を覗き込む。
積み上がった段ボール。
整理途中の本。
そして、棚にある二つのキーホルダー。
慧の視線が止まった。
「……それ」
「うん」
慧が、少しだけ目を細めた。
「二つとも、ずっと棚に飾ってたんだね」
「もちろん」
そう言うと、慧は少し笑った。
その笑顔を見つめる。
高校生活の最後に見た顔。
記憶を取り戻してから何度も見てきた顔。
そして――昔から、ずっと好きだった顔。
「ねえ、慧」
「ん?」
「これ……持ってて」
私は星屑の小瓶を差し出した。
慧が目を瞬く。
「俺に?」
「うん」
「いいの?」
「だって、これ……慧に渡すものだった気がするから」
慧はしばらく黙っていた。
そして、両手で大切そうに小瓶を受け取った。
「……じゃあ、これは俺が持ってる」
「うん」
「愛梨は?」
「私はこっち」
私は月の小瓶を手に取った。
すると慧が、小さく笑った。
「逆じゃない?」
「え?」
「月が俺で、星が愛梨なんだろ?」
「うん」
「じゃあ、それ俺が持ってるの変じゃない?」
「……でも」
私は少し考えてから、笑った。
「慧が私の星を持ってて、私が慧の月を持つのも……なんかいいなって」
「……」
「だめ?」
「……だめじゃない」
慧は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
それを見て、思わず笑ってしまう。
「照れてる?」
「照れてない」
「絶対照れてる」
「……うるさい」
そう言いながら、慧の口元も少し笑っていた。
そのときだった。
星屑の瓶を持っていた慧の手が、ふと止まる。
「……愛梨」
「なに?」
「これ」
慧が瓶を裏返す。
瓶の底に、小さく貼られた紙があった。
そこには、少し古びた文字が残っていた。
――『いつか、また二つ並べよう』
「……」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「これ……」
「覚えてる?」
「……ううん」
そう答えた直後。
頭の奥に、光が差した。
夕暮れの教室。
窓際に並べられた二つの瓶。
隣に座る慧。
まだ幼さの残る横顔。
『離れてても、これを見たら思い出せるかな』
『何を?』
『……俺たちのこと』
『忘れないよ』
――あの時守れなかった約束。
だけど。
なくした記憶の中にあったものは、消えてしまったわけじゃなかった。
どこかにずっと残っていた。
星屑の瓶も。
月の瓶も。
そして――慧への気持ちも。
「……思い出した」
「愛梨?」
「少しだけ」
目に涙が浮かぶ。
慧は何も言わず、隣に座った。
「昔の私たち……瓶を並べてた」
「うん」
「慧が、いつかまた並べようって」
「……覚えてたんだ」
私は首を振る。
「瓶が、覚えててくれた」
慧は少しだけ目を伏せた。
そして二人は、机の上に瓶を並べた。
月。
星。
二つの光が隣り合う。
その瞬間、不思議なくらい自然に思えた。
ずっとこうだったのだ。
星は月のそばにいて。
月は星を照らして。
離れてしまった時間さえ、二人を完全には引き離せなかった。
「……綺麗」
「うん」
慧が私を見つめる。
その瞳が、いつもより少し柔らかかった。
私は少しだけ慧との距離を縮めた。
肩が触れる。
それだけで、心臓が跳ねる。
「慧」
「ん?」
「高校、卒業したね」
「したな」
「なんか……実感ない」
「俺も」
「これから、どうなるんだろうね」
慧は少し考えてから言った。
「……変わらないだろ」
「え?」
「俺たちは俺たちだから」
私は思わず目を細める。
「そっか」
「うん」
「じゃあ……これからも一緒?」
「当たり前」
その答えが嬉しくて、私は笑った。
すると慧が、少し困ったような顔をする。
「……そんな顔で笑わないで」
「なんで?」
「……我慢できなくなる」
「何を?」
「……」
慧は答えなかった。
ただ、私の頬にそっと手を添える。
「嫌だったら言って」
私は小さく首を振った。
「言わない」
「……そっか」
慧が少しだけ顔を近づける。
私もゆっくりと目を閉じた。
唇が触れる。
一瞬だけ。
それでも、胸の奥まで温かくなるようなキスだった。
離れたあと、二人とも何も言えない。
「……慧」
「……ん」
「もう一回」
「……」
慧が驚いたように私を見る。
「愛梨から言うの、ずるい」
「だって……もう、忘れたくないから」
慧は目を細めた。
「……そうだな」
今度は、さっきより少し長くて、深い。
窓の外では、春の風が吹いている。
机の上では、月と星が並んでいる。
「……愛梨」
吐息混じりの愛おしい声が、私を呼ぶ。
「なに?」
「引っ越しの準備、まだ終わってないだろ」
「……うん」
「……続きやるよ」
「えー……」
「終わらないと困るだろ」
「休憩、もう一回」
「さっきしたばっか」
「してない」
「した」
「慧が勝手に終わらせただけでしょ」
「十分だろ?」
慧はため息をついて、本を段ボールに詰め続けている。
机の上には、月と星の瓶が並んだまま。
窓からの光を受けて、二つの瓶がきらめいている。
「慧」
「うん」
返事はするのに、手は止めない。
それがなんだか悔しくて、慧の隣にしゃがみ込んだ。
「ねえ」
「何」
「顔、こっち向けて」
「……なんで」
「いいから」
慧が仕方なさそうに顔を向ける。
その瞬間、身を乗り出して、自分からキスをした。
触れるだけの、本当に短いキス。
「……っ」
慧が目を見開く。
「何して」
「休憩」
彼に笑いかける。
でもその笑顔が、少しだけ震えていたことに、慧は気づいていた。
「愛梨」
「なに」
「どうした?」
「どうもしない」
「嘘ついてる」
「……」
慧の手が、私の手首をそっと掴む。
その手が少し熱くて、目を伏せた。
「卒業して、引っ越して、離れるわけじゃないのに」
「うん」
「それなのに、なんか……」
「寂しい?」
「……そうかもしれない」
慧は少し黙ってから、手首を引いた。
バランスを崩した体が、慧の胸に倒れ込む。
そのまま、床に押し倒される形になった。
背中にフローリングの冷たさを感じる。
でもそれ以上に、目の前に慧の顔があって、心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「…慧」
「……嫌?」
「……嫌じゃ、ない」
慧はそれだけ確認すると、私の両手首をそっと床に押さえつけた。
逃げ場をなくすように、でも決して乱暴じゃなく。
ただ、私がどこにも行かないように。
「さっきの続き」
「え?」
「休憩の」
慧の顔が近づく。
今度は触れるだけじゃなかった。
柔らかく重なる唇。
そこから伝わる熱に、頭の奥がじんわりと痺れていく。
「ん……」
小さく声が漏れた。
慧は一瞬息を止めて、それからもっと深く口づけた。
角度を変えながら、何度も確かめるように。
意味もなく慧の手を握り返す。
小瓶のことなんて、頭から消えていた。
今はただ、慧の存在だけが全てだった。
どれくらいそうしていたのか。
ようやく唇が離れたとき、私は息をするのも忘れていた。
「は……っ」
「…苦しかった?」
「……ちょっと」
「ごめん」
「やっぱり慧、意地悪」
慧が苦笑する。
その表情に、私もつられて笑った。
「…慧」
「……ん」
「ここ、床だから」
「……わかってる」
そう言いながら、慧は少し体を起こした。
けれど、まだ離れない。
むしろ私の髪に指を絡めて、額に自分の額を寄せる。
「愛梨」
「なに」
「覚悟して」
「……何の」
「ずっと一緒にいる覚悟」
胸が、きゅうっと音を立てた気がした。
「そんなの」
「……」
「とっくにしてるよ」
「そっか」
「慧こそ、覚悟してる?」
「……してるに決まってるだろ」
慧がもう一度、私の唇を塞いだ。
今度はもっとゆっくり。
もっと確かめるように。
そのまま、慧の手が腰に触れる。
「……慧」
見下ろす慧の表情は、いつもの穏やかさとは少し違っていた。
「ごめん。今日は……たぶん、余裕ない」
頬が熱くなる。
それでも逃げることはせず、言葉の代わりに、自分から慧の首に腕を回した。
窓の外では、桜が風に揺れている。
机の上では、月と星が寄り添っている。
どちらか一つではなく。
二つが並んでいるからこそ、あの日の記憶が完成する。
これから先、どんな未来が待っていても。
もう、忘れない。
忘れてしまったとしても。
きっとまた、思い出せる。
だって――。
星は月を見つける。
月もまた、星を見つけるから。
その夜。
二人の部屋の片隅には、月の瓶と星屑の瓶が並んでいた。
月と、星。
かつて別々の場所にあった二つの光は、今度こそ同じ場所で輝いていた。


