私は一歩一歩、砂浜を踏みしめながら海の方へ走った。
冷たい夜風が頬を打つ。
潮の香りと、湿った砂の匂いが鼻をくすぐる。
心臓が早鐘のように鳴って、胸の奥がざわつく。
なぜここに来ようと思ったのかは分からない。
ただ、引き寄せられるように、この場所に足が向いた。
直感が告げる——きっと、あそこに彼がいる、と。
夜空を映す海は漆黒に染まり、波の音が静かに、でも確かに私を包み込む。
月光が水面に薄い光の筋を描き、白銀の道のように揺れている。
波は柔らかく、でも確かなリズムで岸を打つ。
その中に、一人、月を眺める人物の姿が見えた。
ズボンを膝までまくり上げ、足を水に浸しながら、静かに海の中心で佇む慧。
黒いシルエットの向こうに、彼の肩越しに輝く月が映る。
波の反射で彼の輪郭がかすかに光り、まるで夜と海が彼を包み込んでいるかのようだった。
その姿を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。
息を呑む。
思わず立ち止まり、砂浜に手をついて深呼吸をした。
潮の香りと冷たい風、そして遠くで波が打ち寄せる音。
全てが、慧の存在を際立たせている。
私はそっと、波打ち際を歩きながら彼に近づく。
心臓が鼓動を速める。
怖いような、でも抑えきれない期待で胸がいっぱいだった。
目の前にいる慧——ずっと忘れていた想いが、確かに私の中で目覚めていく。
「慧…」
小さな声が夜の海に溶けていった。
私もそっと靴を脱ぎ、海に足を踏み入れた。
夜の海は思っていたより冷たくて、足首に触れた瞬間、小さく息を吸い込む。
波が寄せては引き、砂をさらっていく感触がくすぐったい。
潮騒が低く響き、世界の音がそれだけになったような気がした。
一歩、また一歩と慧の方へ近づく。
水面に映る月の光が揺れて、私たちの影を歪ませる。
やがて彼のすぐ隣まで来ると、慧は驚いたようにこちらを見た。
月明かりに照らされたその横顔は、昼間よりもずっと静かで、どこか脆そうで、でも確かに大人びて見えた。
夜空に浮かぶ満月は白く、淡く、まるで私たちを見守っているみたいだった。
海は黒く深く広がり、波が光を砕いては、また繋ぎ直す。
風が吹くたび、慧の髪が揺れて、肩がほんの少し触れる。
その小さな距離に、胸がぎゅっと締め付けられる。
二人分の呼吸が、静かな海に溶けていく。
最初に口を開いたのは慧だった。
「……愛梨」
夜の海に漂う静寂と、波のさざめきだけが二人の間に存在している。
月光が水面に反射して、私たちの影を淡く揺らす。
その中で、慧の声は優しく、でも力強く胸に響く。
「愛梨…俺、ずっと愛梨だけを想ってた」
その一言に、心の奥底に眠っていた感情が震える。
忘れていた記憶や、抑え込んでいた想いが、一気に溢れ出しそうになる。
私はただ、彼の目を見つめ返すしかできなかった。
逸らすことなどできない。
「だけど、あの日…愛梨が倒れたあの日、俺は思ったんだ。俺には愛梨を幸せにする資格はないって」
彼の声には迷いと、深い後悔、そして変わらぬ愛が混ざっている。
私が入院していた日々、手紙を読んで会わなかったこと。
すべて彼の優しさと葛藤の証だったのだと理解する。
「高校に入って、愛梨の姿を見た時、やっぱり好きだって気付いた。でも、愛梨は記憶を失っていた。だからどうすればいいか分からなかった。近づきすぎるのはやめようと思ったんだ」
慧の言葉に、胸が締め付けられた。
私を守ろうとした彼の強い思いと、同時に自分を責めていた心が痛いほど伝わる。
そして、静かに言葉を絞り出す。
「…ごめん。今のも言い訳だ。俺が、愛梨に拒絶されるのが怖かっただけだ」
その瞬間、胸に温かい何かが押し寄せ、涙が自然と頬を伝う。
私は慧の手をそっと握った。
波の音、夜の冷たさ、潮の香り、全てが二人だけの世界のように感じられた。
「そんな…慧のせいじゃない。全部、私が忘れていたこと、全部私のせい…」
声が震えながらも、心からの言葉が溢れ出す。
月光に照らされ、波に反射する二人の影は、まるでこの瞬間を祝福しているかのように揺れていた。
私はゆっくりと、慧の胸に顔をうずめた。
彼の鼓動が私の胸に伝わり、これまでの不安も痛みも、少しずつ溶けていくようだった。
夜の海、波のさざめき、月の光。
そのすべてが、今この瞬間、私たちを優しく包んでいた。
慧は、私の名前をとても優しく呼んだ。
波音に紛れそうなほど静かな声なのに、不思議なくらいはっきりと胸に届く。
私は彼の胸から顔を離し、逃げずに、逸らさずに、しっかりと慧を見つめた。
月明かりに照らされた瞳は揺れていて、でも迷いはなかった。
慧は一度大きく息を吸い込み、覚悟を決めたように肩を正す。
「ずっと、好きでした」
その言葉は、夜の海に溶けることなく、確かに響いた。
波が砕ける音よりも、風が草を揺らす音よりも、何よりも強く。
——ずっと、待っていた。
胸の奥で何度も何度も想像してきた言葉。
もう聞けないと思っていた言葉。
それが今、現実としてここにある。
視界が滲み、堪えきれず涙が溢れ出す。
熱いものが頬を伝って、海水と混ざっていく。
「私も……」
そう言いかけた、その途中で、視界がふっと暗くなった。
慧の腕が、迷いなく、強く私を抱きしめたから。
ぎゅっと、離さないと言うみたいに。
胸に顔を埋めると、彼の心臓の音が伝わってくる。
早くて、必死で、生きている証みたいな音。
私の涙は止まるどころか、さらに勢いを増して溢れた。
慧の服をぎゅっと掴む指先が震える。
水面が揺れ、月の光が砕ける。
それでも、私たちは離れなかった。
どれくらいそうしていたのだろう。
時間の感覚はとうに失われていて、ただ潮騒と互いの体温だけが世界のすべてだった。
やがて少しだけ顔を上げると、水平線の先に淡い光の道が伸びているのが見えた。
月が海に描いた、ムーンロード。
白く、静かに、まるで私たちのもとへ続く道みたいに。
夜の海に抱かれながら、私たちは静かに寄り添ったまま、水平線の向こうを見つめていた。
潮風が髪を揺らし、遠くから波が優しく打ち寄せる。
目の前の世界は、まるで時間が止まったかのように穏やかだった。
ふと、空を見上げると——青く輝く彗星が二つ、まっすぐに流れていった。
まるで私たちの想いを祝福するかのように、夜空を横切る光の軌跡。
その光を見つめると、胸の奥に温かい安心感が広がり、涙はもう悲しみではなく、喜びに変わっていた。
「愛梨」
名前を呼ばれる。
優しい声が、波音に溶ける。
「もし、いつか全部忘れちゃっても」
彼は夜空を見上げ、一番星へと目を細めた。
「彗星を見たら、俺を思い出して」
「俺はずっと――」
「愛梨のことが大好きです」
そして、彗星は夜空の果てへ消えゆく。
あの夜、星に願った約束。
その続きが、今ここにある。
夜の海と、月の光と、そして——やっと重なった、私たちの想いと一緒に。


