慧の家で勉強するのは、いつものことだった。
玄関を開けると、どこか落ち着く匂いがして、緊張がふっとほどける。
机に向かって、ノートと教科書を広げて。
疲れたら、ゲームをしたり、寝転んだりして。
「ここ、公式違うよ」
慧は私のノートを覗き込んで、迷いなく指摘する。
私は慌てて消しゴムを取って、
「あ、本当だ……」
と小さく呟く。
「ほら、さっき言っただろ」
そう言いながらも、責める声音じゃない。
隣に座る慧は、ペンを持って、ゆっくり式を書き直してくれる。
ページを睨んだまま、首を傾げて。
「この英文、どういう意味……?」
—— The moon is beautiful, isn’t it?
「月が綺麗ですね、って」
私が何気なくそう聞くと、慧の動きが止まった。
一瞬だけ、空気が変わる。
「……知らないの?」
「うん。直訳でいいの?」
少しの沈黙。
窓の外には、本当に丸い月が浮かんでいた。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
慧は視線を逸らして、耳を赤くしながら言った。
「……好きって意味」
「え?」
「昔の人がさ、直接“好き”って言えなくて、そう言い換えたらしい」
胸が、どくん、と大きく鳴る。
「へぇ……ロマンチックだね」
そう言うのが精一杯だった。
顔が熱くて、きっと赤くなっていたと思う。
慧は小さく笑って、
「愛梨、そういうの鈍そうだよな」
なんて言った。
その声が近くて、問題の意味よりも、慧の横顔ばかり見てしまっていた。
それからしばらく勉強を続けて、集中が切れてぼーっとすると、
「もう眠い?」
と気づかれて、
「……ちょっと」
と答えると、苦笑される。
「じゃあ今日はここまでにしよ」
そうして、そのまま泊まることもあった。
布団を並べて、電気を消して。
「明日も頑張ろうな」
「うん」
二人で勉強して、時々ふざけ合って。
そんな時間を、確かに一緒に過ごしていた。
いつも通り彼の家に通う日々が続いていたある日。
私が消しゴムを取ろうとした、その瞬間。
同時に、慧の手も伸びてきた。
「私が先に使うの!」
「いや、俺の方が先だっただろ」
子どもみたいな言い合いをしながら、慧は消しゴムを少し高く掲げる。
それに届かせようと背伸びをした、その拍子だった。
足元がぐらりと揺れて、次の瞬間、私は慧の方へ倒れ込んでいた。
静かな部屋。
教科書がずれて、ペンが転がる音だけがやけに大きく響く。
気づけば、床の上で慧に支えられていた。
腕の中にいる、という事実に、頭が真っ白になる。
近すぎる距離。
息遣いまで分かってしまいそうで、動くことができなかった。
慧はゆっくりと私を起こして、きちんと座らせる。
そのまま、何か言いたげにこちらを見つめてくる。
しばらく、時が止まったみたいだった。
顔が、近づく。
——あ、だめだ。
そう思ったのに、体は固まったままで、何もできなかった。
でも、慧は、ぎりぎりのところで動きを止めた。
ほんの一瞬、迷うような間があってそして、すっと距離を取る。
しばらく、触れることなく離れた彼の唇を見つめる。
…嫌じゃなかった。
「……ごめん」
小さくそう言って、目を逸らす慧。
私は何も言えず、ただ胸の鼓動を必死に抑えていた。
あの時の沈黙は、ふざけ合っていた空気とはまるで違っていて。
——越えてはいけない線を、お互い、分かってしまった瞬間だった。
その記憶が、今になって、やけに鮮明によみがえってくる。
思い出してしまった。
忘れたふりをしていた、大切で、苦しい記憶を。
「……覚えてるよ」
そう言って、私は慧の方を見つめた。
あの夜の空気も、消しゴムを巡って笑ったことも、近づいて、離れた、その一瞬も——全部。
慧は一瞬だけ目を見開いて、それから少し困ったように笑った。
「……良かった」
それだけ言って、慧は黙り込んでしまう。
街灯の光に照らされた横顔は、どこか大人びていて、でも変わらなくて。
その沈黙が、なぜか切なくて、愛おしくて。
気づいたら、私は考えるより先に体を動かしていた。
一歩、踏み出す。
慧がわずかに目を見開く。
でも私は止まらなかった。
そのまま、慧の胸に飛び込んでいた。
腕を伸ばして、彼の背中に回す。
ぐ、と顔を胸に押し付けると、ふわりと香る柔軟剤の匂い。
思っていたよりもずっとしっかりした胸板。
心臓が、うるさい。
「……っ」
慧の喉から、かすかな吐息が漏れた。
全身が強張ったのが腕越しに分かって、急に怖くなる。
拒まれたらどうしよう。
離してと言われたら。
そう思うと、余計に指に力が入った。
離したくない。
…離れたくない。
一瞬の間。
どれくらいだっただろう。
数秒が、永遠に感じられた。
ふ、と慧の力が抜ける。
それから、彼の腕が持ち上がって、そっと私の背中に回された。
おそるおそる、壊れものを扱うみたいに。
強くはない、でも確かめるように、ゆっくりと。
彼の手のひらが、私の背中を包み込む。
そのぬくもりに、目の奥がじわりと熱くなった。
夜の公園は静かで、街灯の光だけが、私たちを包んでいた。
互いの鼓動が混ざり合って、どっちの心音か分からなくなる。
言葉はなくても、胸に伝わる震えとぬくもりだけで十分すぎるほどだった。
彼がここにいる。
それだけで、こんなにも安心してしまう自分がいる。
流されちゃだめ。
そう思っていたはずなのに。
それでも私は、この腕の中が嫌になるほど心地よくて、もっと強く抱きしめてほしくて、そんな自分を止められなかった。
夜空には静かに月が浮かんでいて。
冬の澄んだ空気のせいか、輪郭までくっきり見える。
「月が綺麗だね」
自分でも分かる。
少しだけ、試している。
慧は、私を抱いたまま、ゆっくりと顔を覗き込んだ。
「それ、どういう意味で言ってんの」
低くて、少しだけ意地悪な声。
心臓が跳ねる。
本当は分かってるくせに。
でも、私はまだ踏み込めない。
怖い。
もしまた、拒まれたら。
「ほら、見て。今日、すごくよく見えるよ」
誤魔化すように、空を指さす。
慧は数秒私を見つめたまま動かない。
それからわざとらしく小さくため息をついた。
「……ずるい」
拗ねたような顔。
次の瞬間、慧の手がそっと私の肩を引き寄せた。
心の準備をする間もなく、彼の顔が近づいてくる。
さらりと前髪が私の額に触れたかと思うと、すぐに、ひんやりとした夜風に冷やされた彼の唇が、私の額にそっと押し当てられた。
ちゅ、という小さな音がやけに耳の奥に響く。
柔らかくて、あたたかくて、触れている時間はほんの二秒ほど。
でも、離れたあとも、そこだけがじんじんと熱を持っているみたいに熱かった。
思わず額を手で押さえて、目をまんまるにして慧を見上げる。
慧は少しだけ目を伏せて、長い睫毛がふる、と震えたかと思うと、照れを隠すみたいに口元だけでふっと笑った。
「仕返し」
囁くような声に、どきりとする。
月明かりの下。
冷たい夜風とは裏腹に、顔が熱い。
心臓の音が、さっきよりもずっと大きく響いていた。
それから私たちは、何事もなかったかのような顔で湊音くんの家に戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、さっきまでの静かな公園とは違う、生活音と明かりに一気に現実へ引き戻される。
「おかえり〜」
リビングから顔を出した日菜が、にやにやしながらこちらを見る。
「ちょっと遅かったけど、何してたの?」
その一言に、胸がひくりと跳ねた。
慧と一瞬だけ目が合う。
「コンビニ、混んでてさ」
「人が多くて、遅くなっちゃった」
ほとんど同時に同じことを言ってしまって、二人で一瞬固まる。
次の瞬間、どちらともなく小さく笑って、誤魔化すように肩をすくめた。
「へぇ〜?」
日菜は明らかに疑っている顔だけど、それ以上は突っ込んでこない。
「ほらほら、お菓子ある?」
湊音くんがそう言って話題を変えてくれて、私は内心ほっと息をついた。
テーブルの上にお菓子を並べながら、さっきまで慧の胸にあったはずの自分の心臓が、まだ少し早く動いているのを感じる。
横に立つ慧も、どこか落ち着かない様子で、でもいつも通りを装っている。
——何もなかった。
そういうことに、した。
みんなで笑って、また勉強の続きを始める。
なのに、さっき触れたぬくもりだけが、私の中からどうしても消えてくれなかった。
玄関を開けると、どこか落ち着く匂いがして、緊張がふっとほどける。
机に向かって、ノートと教科書を広げて。
疲れたら、ゲームをしたり、寝転んだりして。
「ここ、公式違うよ」
慧は私のノートを覗き込んで、迷いなく指摘する。
私は慌てて消しゴムを取って、
「あ、本当だ……」
と小さく呟く。
「ほら、さっき言っただろ」
そう言いながらも、責める声音じゃない。
隣に座る慧は、ペンを持って、ゆっくり式を書き直してくれる。
ページを睨んだまま、首を傾げて。
「この英文、どういう意味……?」
—— The moon is beautiful, isn’t it?
「月が綺麗ですね、って」
私が何気なくそう聞くと、慧の動きが止まった。
一瞬だけ、空気が変わる。
「……知らないの?」
「うん。直訳でいいの?」
少しの沈黙。
窓の外には、本当に丸い月が浮かんでいた。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。
慧は視線を逸らして、耳を赤くしながら言った。
「……好きって意味」
「え?」
「昔の人がさ、直接“好き”って言えなくて、そう言い換えたらしい」
胸が、どくん、と大きく鳴る。
「へぇ……ロマンチックだね」
そう言うのが精一杯だった。
顔が熱くて、きっと赤くなっていたと思う。
慧は小さく笑って、
「愛梨、そういうの鈍そうだよな」
なんて言った。
その声が近くて、問題の意味よりも、慧の横顔ばかり見てしまっていた。
それからしばらく勉強を続けて、集中が切れてぼーっとすると、
「もう眠い?」
と気づかれて、
「……ちょっと」
と答えると、苦笑される。
「じゃあ今日はここまでにしよ」
そうして、そのまま泊まることもあった。
布団を並べて、電気を消して。
「明日も頑張ろうな」
「うん」
二人で勉強して、時々ふざけ合って。
そんな時間を、確かに一緒に過ごしていた。
いつも通り彼の家に通う日々が続いていたある日。
私が消しゴムを取ろうとした、その瞬間。
同時に、慧の手も伸びてきた。
「私が先に使うの!」
「いや、俺の方が先だっただろ」
子どもみたいな言い合いをしながら、慧は消しゴムを少し高く掲げる。
それに届かせようと背伸びをした、その拍子だった。
足元がぐらりと揺れて、次の瞬間、私は慧の方へ倒れ込んでいた。
静かな部屋。
教科書がずれて、ペンが転がる音だけがやけに大きく響く。
気づけば、床の上で慧に支えられていた。
腕の中にいる、という事実に、頭が真っ白になる。
近すぎる距離。
息遣いまで分かってしまいそうで、動くことができなかった。
慧はゆっくりと私を起こして、きちんと座らせる。
そのまま、何か言いたげにこちらを見つめてくる。
しばらく、時が止まったみたいだった。
顔が、近づく。
——あ、だめだ。
そう思ったのに、体は固まったままで、何もできなかった。
でも、慧は、ぎりぎりのところで動きを止めた。
ほんの一瞬、迷うような間があってそして、すっと距離を取る。
しばらく、触れることなく離れた彼の唇を見つめる。
…嫌じゃなかった。
「……ごめん」
小さくそう言って、目を逸らす慧。
私は何も言えず、ただ胸の鼓動を必死に抑えていた。
あの時の沈黙は、ふざけ合っていた空気とはまるで違っていて。
——越えてはいけない線を、お互い、分かってしまった瞬間だった。
その記憶が、今になって、やけに鮮明によみがえってくる。
思い出してしまった。
忘れたふりをしていた、大切で、苦しい記憶を。
「……覚えてるよ」
そう言って、私は慧の方を見つめた。
あの夜の空気も、消しゴムを巡って笑ったことも、近づいて、離れた、その一瞬も——全部。
慧は一瞬だけ目を見開いて、それから少し困ったように笑った。
「……良かった」
それだけ言って、慧は黙り込んでしまう。
街灯の光に照らされた横顔は、どこか大人びていて、でも変わらなくて。
その沈黙が、なぜか切なくて、愛おしくて。
気づいたら、私は考えるより先に体を動かしていた。
一歩、踏み出す。
慧がわずかに目を見開く。
でも私は止まらなかった。
そのまま、慧の胸に飛び込んでいた。
腕を伸ばして、彼の背中に回す。
ぐ、と顔を胸に押し付けると、ふわりと香る柔軟剤の匂い。
思っていたよりもずっとしっかりした胸板。
心臓が、うるさい。
「……っ」
慧の喉から、かすかな吐息が漏れた。
全身が強張ったのが腕越しに分かって、急に怖くなる。
拒まれたらどうしよう。
離してと言われたら。
そう思うと、余計に指に力が入った。
離したくない。
…離れたくない。
一瞬の間。
どれくらいだっただろう。
数秒が、永遠に感じられた。
ふ、と慧の力が抜ける。
それから、彼の腕が持ち上がって、そっと私の背中に回された。
おそるおそる、壊れものを扱うみたいに。
強くはない、でも確かめるように、ゆっくりと。
彼の手のひらが、私の背中を包み込む。
そのぬくもりに、目の奥がじわりと熱くなった。
夜の公園は静かで、街灯の光だけが、私たちを包んでいた。
互いの鼓動が混ざり合って、どっちの心音か分からなくなる。
言葉はなくても、胸に伝わる震えとぬくもりだけで十分すぎるほどだった。
彼がここにいる。
それだけで、こんなにも安心してしまう自分がいる。
流されちゃだめ。
そう思っていたはずなのに。
それでも私は、この腕の中が嫌になるほど心地よくて、もっと強く抱きしめてほしくて、そんな自分を止められなかった。
夜空には静かに月が浮かんでいて。
冬の澄んだ空気のせいか、輪郭までくっきり見える。
「月が綺麗だね」
自分でも分かる。
少しだけ、試している。
慧は、私を抱いたまま、ゆっくりと顔を覗き込んだ。
「それ、どういう意味で言ってんの」
低くて、少しだけ意地悪な声。
心臓が跳ねる。
本当は分かってるくせに。
でも、私はまだ踏み込めない。
怖い。
もしまた、拒まれたら。
「ほら、見て。今日、すごくよく見えるよ」
誤魔化すように、空を指さす。
慧は数秒私を見つめたまま動かない。
それからわざとらしく小さくため息をついた。
「……ずるい」
拗ねたような顔。
次の瞬間、慧の手がそっと私の肩を引き寄せた。
心の準備をする間もなく、彼の顔が近づいてくる。
さらりと前髪が私の額に触れたかと思うと、すぐに、ひんやりとした夜風に冷やされた彼の唇が、私の額にそっと押し当てられた。
ちゅ、という小さな音がやけに耳の奥に響く。
柔らかくて、あたたかくて、触れている時間はほんの二秒ほど。
でも、離れたあとも、そこだけがじんじんと熱を持っているみたいに熱かった。
思わず額を手で押さえて、目をまんまるにして慧を見上げる。
慧は少しだけ目を伏せて、長い睫毛がふる、と震えたかと思うと、照れを隠すみたいに口元だけでふっと笑った。
「仕返し」
囁くような声に、どきりとする。
月明かりの下。
冷たい夜風とは裏腹に、顔が熱い。
心臓の音が、さっきよりもずっと大きく響いていた。
それから私たちは、何事もなかったかのような顔で湊音くんの家に戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、さっきまでの静かな公園とは違う、生活音と明かりに一気に現実へ引き戻される。
「おかえり〜」
リビングから顔を出した日菜が、にやにやしながらこちらを見る。
「ちょっと遅かったけど、何してたの?」
その一言に、胸がひくりと跳ねた。
慧と一瞬だけ目が合う。
「コンビニ、混んでてさ」
「人が多くて、遅くなっちゃった」
ほとんど同時に同じことを言ってしまって、二人で一瞬固まる。
次の瞬間、どちらともなく小さく笑って、誤魔化すように肩をすくめた。
「へぇ〜?」
日菜は明らかに疑っている顔だけど、それ以上は突っ込んでこない。
「ほらほら、お菓子ある?」
湊音くんがそう言って話題を変えてくれて、私は内心ほっと息をついた。
テーブルの上にお菓子を並べながら、さっきまで慧の胸にあったはずの自分の心臓が、まだ少し早く動いているのを感じる。
横に立つ慧も、どこか落ち着かない様子で、でもいつも通りを装っている。
——何もなかった。
そういうことに、した。
みんなで笑って、また勉強の続きを始める。
なのに、さっき触れたぬくもりだけが、私の中からどうしても消えてくれなかった。


