記憶の欠片

 それから数日が経ち、学校はテスト週間に入った。


 廊下にはいつもより張り詰めた空気が流れていて、休み時間の雑談も自然と問題集や赤ペンの話題に変わっていく。


 今日の放課後は、湊音くんの家で勉強会を開くことになっていた。

 メンバーは、慧、湊音くん、日菜、そして私。


「湊音の家って広いんだよな」


「静かだし、集中できると思うよ」


 そんな会話をしながら、みんなで連れ立って帰路につく。


 湊音くんの家は住宅街の中にあって、落ち着いた雰囲気だった。


 玄関の扉が開く。


 湊音くんに促され、私たちはリビングへ案内される。


 日菜が鞄を置きながら言う。


「じゃあ、とりあえず苦手科目からいく?」


 日菜の一言で、勉強会が始まる。


 湊音くんは数学担当のように率先して説明を始め、日菜は隣で「なるほど〜」と相槌を打ちながらノートを取っている。


 私はというと、慧の隣の席に座ってしまっていて、それだけで少し落ち着かなかった。


「愛梨、ここ理解できた?」


 慧が問題集をこちらに向けてくる。


 近い。


 声も、距離も。


「……うん、大丈夫」


 そう答えたけれど、正直あまり頭に入っていなかった。


 湊音くんが苦笑いしながら言う。


「ほらほら、イチャつかない。テスト前だぞー」


「してねぇよ」


 慧は即座に否定するけれど、耳が少し赤い。


 その様子を見て、日菜がニヤニヤしながら私を見る。


「ねー、愛梨」


「な、なに?」


「集中しないと赤点だよ?」


 分かってるよ、と心の中で返しながら、私はシャーペンを握り直した。


 みんなで集まって勉強するのは、楽しい。


 笑い声もあって、誰かがつまずけば誰かが助けてくれる。


 ——でも。


 慧がいるだけで、私の心は簡単に乱される。


 問題を解く合間にふと目が合って、微笑まれるだけで、胸がざわつく。


 勉強会なのに、肝心のテストよりも、隣にいる彼の存在ばかりが気になってしまっていた。


 この時間が、少し怖くて、少し幸せで。


 私は複雑な気持ちを抱えたまま、ページをめくった。


 それから数時間、黙々と問題を解き続けて、ふと顔を上げると窓の外はすっかり暗くなっていた。


 時計を見ると、思っていたより時間が経っている。


「……疲れたーーー」


 日菜が机に突っ伏すのと同時に、それな、と慧も大きく息を吐いた。


 集中していた分、どっと疲れが押し寄せてきた感じだった。


「ちょっと休憩しよっか」


 湊音くんの一言で、ペンを置く音が重なる。


 私は立ち上がって言った。


「私、コンビニでお菓子とか買ってくるよ。飲み物も少なくなってきたし」


 そう言った瞬間、慧が顔を上げる。


「ひとりだと危ないし、俺も着いていく」


 あまりにも自然な口調で言われて、胸がきゅっと鳴った。


 断る理由なんて、見つからない。


「……うん、ありがとう」


 湊音くんが少しだけ意外そうな顔で二人を見るけど、何も言わない。


 日菜はというと、にやにやしながら小声でいってらっしゃーい、なんて言ってくるから私は慌てて視線を逸らした。


 玄関で靴を履くと、外の空気はひんやりとしていて、昼間の名残はもうなかった。


 街灯の光がアスファルトに落ちて、影が細く伸びる。


「寒くない?」


 慧が横を歩きながら聞いてくる。


「大丈夫」


 並んで歩くこの距離が、近くて、遠い。


 何気ないはずの帰り道が、どうしようもなく特別に感じてしまう。


 ダメだ、期待しちゃ。


 そう思うのに、心臓は素直じゃない。


 コンビニの白い光が見えてくる。


 私は無意識に、慧の歩調に合わせていた。


 ——この時間が、ずっと続けばいいのに。


 そんな矛盾した願いを、胸の奥に隠しながら。


 それから私たちは甘いお菓子、スナック、飲み物を買って、店を出た。


 コンビニの袋を片手に、私は来た道を引き返そうとした、その時だった。


「愛梨」


 呼び止められて、振り返る。


 慧は少しだけ言いづらそうに視線を逸らしてから、ぽつりと言った。


「……もうちょっと、二人でいたい」


 胸が、音を立てて跳ねた。


 理由も、行き先も告げないその言葉が、ずるいと思う。


 でも——拒めなかった。


「……うん」


 それだけで、十分だったみたいで。


 慧は小さく息を吐いて、歩き出す。


 向かったのは、すぐ近くの公園。


 昼間は子どもたちの声で賑やかな場所も、今はしんと静まり返っている。


 ブランコも滑り台も、闇の中に溶け込んでいて、ただ街灯だけがぽつんと灯っていた。


 ベンチに並んで座る。


 冷たい木の感触が、制服越しに伝わってくる。


 周りはすっかり暗くて、街灯のオレンジ色の光が、慧の横顔を照らしていた。


 影が強く落ちて、睫毛の影が頬に揺れる。


 何か話さなきゃ、と思うのに、言葉は出てこない。


 沈黙が、嫌じゃない。


 むしろ、壊したくなかった。


 ふと空を見上げると、星がいくつか瞬いていた。


 都会の空にしては、意外なほど綺麗で。


「……星、見えるね」


「ほんとだ」


 慧も同じように空を見上げた。


 それきり、また静かになる。


 肩が触れそうで、触れなくて。


 その微妙な距離が、息苦しいほど愛おしい。


 ——諦めるって、決めたはずなのに。


 ——もう困らせないって、決めたのに。


 隣にいるだけで、全部が揺らいでしまう。


 慧の横顔を、盗み見る。


 街灯に照らされたその表情は、どこか寂しそうで、でも穏やかで。


 一年前より、少し大人びて見えた。


 私たちは言葉を交わさないまま、ただ並んで座り続ける。


 星が流れるわけでも、奇跡が起こるわけでもない。


 それでも、この時間が終わってほしくないと、強く思ってしまう自分がいた。


「なあ、愛梨」


 静かな声で、慧が話しかけてきた。


 星を見上げたまま、少し懐かしむように。


「中学の時もさ、二人でよく勉強会してたの、覚えてる?」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 ……——覚えてる。


 頭の中で、ふっと景色が切り替わり、記憶がフラッシュバックした。