記憶の欠片

 教室に入ると、まだ少しだけ朝の冷たい空気が残っていた。


 窓際から差し込む光が机の角を白く縁取って、始まりの日を静かに告げている。


 「星宮」


 先に気づいたのは湊音くんだった。


 「同じクラスだな。よかった」


 「ほんとだね」


 二人で何気ない言葉を交わしていると、背後から足音が近づいてきた。


 分からないはずがない、その気配。


 「愛梨」


 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。


 反射的に視線を逸らしてしまった。


 見てしまったら、全部崩れてしまいそうで。


 「同じクラスになれて嬉しい」


 慧は、ためらいもなく距離を詰めてくる。


 「毎日一緒にいれるなんて、夢みたいだ」


 ——どうして、そんなことを言うの。


 戸惑いで言葉を失う私をよそに、慧はまっすぐだった。


 昔と同じ、いや、それ以上に。


 振ったのは、慧だ。


 区切りをつけたいって言ったのも、慧だった。


 なのに、どうして今さら。


 どうしてそんな優しい顔で、そんな近い距離で。


 「……慧」


 声を出そうとして、うまく音にならない。


 私も、おかしい。


 諦めるって決めたはずなのに。


 もう困らせないって、胸に誓ったはずなのに。


 それなのに、この高鳴り。


 名前を呼ばれただけで、こんなにも乱れる心。


 ダメだ。


 流されちゃ、ダメ。


 そう何度も自分に言い聞かせるのに、慧の視線が、声が、存在そのものが、私の決意を揺らしてくる。


 春の始まりの教室で、私はまた選択を迫られている気がしていた。


 気づけば、甲高いチャイムの音が教室に響いた。


 ざわついていた空気が一斉に引き締まり、先生が教室に入ってくる。


 簡単な自己紹介。


 淡々と進む時間に、さっきまでの胸のざわめきが嘘みたいに遠のいていく……はずだった。


 「じゃあ次、委員会と係を決めるぞ」


 黒板に委員会の名前が書き出されていくのを、ぼんやり眺める。


 何かに集中したかった。


 考える隙を、少しでも埋めたかった。


 ——生活委員。


 気づけば、私は手を挙げていた。


 静かだけど、ちゃんと前を向けそうな委員会。


 今の私には、それがちょうどいい気がした。


 「他に立候補は?」


 一瞬の沈黙。


 「はい」


 その声に、心臓が跳ねる。


 横を見るまでもなく分かった。


 慧だった。


 「……月城もか。じゃあ二人で決定だな」


 先生のその一言で、教室が少しだけざわつく。


 私は驚きと戸惑いで、ただ前を向いたまま動けなかった。


 なんで。


 どうして、ここでも。


 ちらりと視線を向けると、慧は何事もなかったみたいに前を見ている。


 でも、その横顔はどこか決意めいた色を帯びていて。


 ——分からない。


 慧が何を考えているのか。


 私と同じ委員になって、何をしたいのか。


 距離を取ろうとしている私と、距離を縮めようとする彼。


 新しいクラス、新しい立場。


 なのに、私たちの関係だけが、去年の続きみたいに絡まったままで。


 私はまた、胸の奥に小さな不安と戸惑いを抱え込んだ。


 それからというもの、慧は毎日のように私に話しかけてきた。


 朝の「おはよ、愛梨」から始まって、授業の合間の何気ない一言、放課後の委員会の確認まで。


 避けようと思えば避けられたはずなのに、慧は不思議と私のすぐそばに現れた。


 最初のうちは、意識して距離を取っていた。


 返事も短く、目も合わせないようにしていた。


 それでも慧は、困ったように笑うだけで、決して強く踏み込んではこなかった。


 「無理して話さなくていいからさ」


 そう言われるたび、胸がきゅっと締めつけられる。


 生活委員の仕事で並んで歩く帰り道。


 提出物を確認しながら、慧は何気ない調子で話す。


 「愛梨、字きれいだよな」


 「……急に何?」


 「前から思ってた」


 そんな一言で、心が簡単に揺れてしまう自分が嫌だった。


 諦めなきゃいけない。


 もう、困らせないって決めた。


 頭では分かっているのに、慧が名前を呼ぶ声を聞くだけで、その決意は脆く崩れていく。


 放課後、昇降口で靴を履いていると、「一緒に帰ろ」と当たり前みたいに言う。


 拒めばいいのに、私は曖昧に笑って隣を歩いてしまう。


 「愛梨さ、最近ちゃんと笑うようになったよな」


 「……そう?」


 「うん。俺は嬉しい」


 その言葉に、何も言えなくなる。


 嬉しいなんて言われたら、離れられなくなる。


 慧は、決して過去の話をしない。


 でも、まるで何事もなかったみたいに、私との距離を縮めてくる。


 それが余計に、私を混乱させた。


 振ったのは慧。


 区切りをつけたいと言ったのも、慧。


 なのに今は、まるで以前よりも近い。


 慧は、ずるいよ。


 心の中で何度もそう呟いた。


 それでも、気づけば私は慧の隣にいて、笑っていて、名前を呼ばれて胸を高鳴らせている。


 諦める準備をしたはずなのに、想いは薄れるどころか、日々積もっていく。


 私はもう、完全に慧のペースに乗せられてしまっていた。


 それがどんな結末を迎えるとしても、この気持ちだけは、どうしても抑えられなかった。