記憶の欠片

 新学期。


 校門の前に立つと、春の匂いがした。


 去年より少しだけ早く家を出たおかげで、朝の空気は静かだった。


 遅刻しないように、なんて理由をつけているけれど――本当は、慌ただしい朝が怖かっただけかもしれない。


 二年生。


 その言葉を心の中で繰り返す。


 何かが変わるはず、そう思いたい自分と、何も変わらない気がする自分が、まだ同じ場所にいた。


 校舎へ続く階段の前で、自転車のブレーキ音がきゅっと鳴る。


 顔を上げると、そこには日菜がいた。


 「あ、愛梨!」


 春の日差しみたいな声。


 自転車にまたがったまま、にこっと笑う日菜は、去年と変わらない。


 「おはよ」


 「早いじゃん。珍し〜」


 そんな何気ない会話に、胸の奥が少し緩む。


 日菜はそのまま駐輪場に向かうと言って、自転車を押し始めた。


 私は自然とその隣を歩く。


 駐輪場には、新しいシールの貼られた自転車が並んでいて、みんな同じスタートラインに立っているみたいだった。


 自転車を停め終えた日菜と、そのまま並んで校舎へ向かう。


 「クラス、どうなるかな」


 「ね。同じクラスだったらいいよね」


 何気ない一言。


 でも、その「同じ」が少しだけ特別に聞こえた。


 「去年みたいに、席離れたら泣いちゃう」


 「近くなれたらいいね」


 くすっと笑い合う。


 たったそれだけなのに、不安でいっぱいだった胸に、ほんの少し温度が戻る。


 新しい教室、新しい人間関係、新しい一年。


 怖さは消えないけれど——少なくとも今は、隣に日菜がいる。


 私は前を向いて、校舎の中へ一歩踏み出した。


 広場に、掲示板がずらりと並んでいた。


 白い紙に黒い文字。


 たったそれだけなのに、胸がざわつく。


 新しい一年を決める名前の羅列が、朝の風にかすかに揺れていた。


 「一組から見よっか」


 日菜に引っ張られて、人の隙間を縫うように前に出る。


 指でなぞるように、上から順に名前を追っていく。


 一組は………ない。


 二組のボードに目線を移す。


 ——あった。


 橘 日菜

 星宮 愛梨


 「……っ!」


 一瞬、呼吸が止まって、それから一気に息を吐いた。


 「同じ!」


 「やったぁ!」


 思わず顔を見合わせて、同時に笑う。


 肩に触れる距離で、ぴょんと小さく跳ねて喜ぶ日菜。


 その無邪気さにつられて、私も声を出して笑っていた。


 同じクラス。


 それだけで、今年は大丈夫な気がした。


 ……でも。


 視線は、もう一度、掲示板へ戻ってしまう。


 喜びが落ち着いたその隙に、勝手に名前を探してしまう自分がいた。


 凪 湊音


 知っている名前がひとつ。


 胸が、きゅっと鳴る。


 そして——


 月城 慧


 そこにあった名前を見た瞬間、世界の音が遠のいた。


 さっきまで聞こえていた笑い声も、足音も、風の音も、すっと薄れる。


 神様は、意地悪だ。


 ようやく、忘れられそうだったのに。


 春になって、新しい学年になって、少しずつ前を向けると思っていたのに。


 同じクラス。


 それは、偶然なんかじゃないみたいに、私の心を揺さぶってくる。


 「……愛梨?」


 日菜の声で、はっと我に返る。


 大丈夫、と言おうとして、うまく口角が上がらなかった。


 掲示板の紙は、相変わらず無表情で。


 そこに並ぶ名前たちは、何も知らない顔で、私を迎えていた。


 逃げ場なんて、ないんだ。


 そう思い知らされる春の朝だった。


 日菜も掲示板に視線を戻して、指を止めた。


 一拍遅れて、ぱっと顔を上げる。


 「あ、慧。同じクラスじゃん」


 その一言に、胸が小さく跳ねる。


 聞きたくなかった名前なのに、やっぱり反応してしまう自分がいる。


 「良かったね、愛梨!」


 日菜は悪気ひとつない笑顔で、私の背中を軽く叩いた。


 「アピールしまくるチャンスじゃん!」


 その言葉に、私は小さく苦笑いすることしかできなかった。


 喉の奥で、言葉が引っかかる。


 ——違うんだよ、日菜。


 もう、そういうんじゃないんだ。


 そう言いたかった。


 でも、言えなかった。


 慧のことを諦めるって決めたこと。


 それがどれだけ時間をかけて、やっとの思いで辿り着いた答えなのか。


 まだ、誰にも話せるほど整理できていなかった。


 「……そっか、同じだね」


 曖昧に笑ってそう返すと、日菜は満足そうに頷いた。


 「でしょー?運命だよ、運命!」


 運命。


 その言葉が、胸にちくりと刺さる。


 もし本当に運命なら、どうしてこんなに苦しいんだろう。


 どうして、近づくほど遠ざかろうとしてしまうんだろう。


 掲示板から目を逸らして、空を見上げる。


 春の空はやけに澄んでいて、残酷なほど明るかった。


 私は日菜にまだ言っていない。


 慧のことを、諦めるって決めたこと。


 日菜はきっと、私がどんな道を選んでも応援してくれる。


 背中を押してくれる。


 だからこそ、今はまだ言えなかった。


 この気持ちに、ちゃんと名前をつけられるようになるまでは。