記憶の欠片

 あの日、俺は確かに決意した。


 愛梨を守るために。


 そして——俺自身が壊れないために。


 離れる、と。


 あの雨の日、橋の下で読んだ手紙。


 「もう会わない」と書かれた文字。


 震える筆跡。


 あれが、どれだけ俺を突き放したか。


 どれだけ怖かったか。


 守るって言ったのに。


 隣にいるって、約束したのに。


 それでも、あいつは一人を選んだ。


 だから俺は決めたんだ。


 嫌われるほうがマシだって。


 俺を選ばなかったなら、無理に追わないほうがいいって。


 愛梨がこれ以上俺に依存しないように。


 俺も、これ以上期待しないように。


 でも、愛梨の全部が俺を惑わせる。


 泣きそうな顔。


 必死に涙を堪えようとしていた愛梨。


 震える声で、俺に問いかけた言葉。


 ——私が記憶がないから?


 ——それとも、迷惑?


 胸の奥が、強く締め付けられる。


 「……っ」


 ……何やってんだ、俺。


 愛梨を傷つけないために、離れる。


 愛梨を幸せにするために、好きだという気持ちを隠す。


 それが一番いいと思っていた。


 だから、クリスマスの日も。


 愛梨の告白を断った。


 どれだけ苦しくても。


 どれだけ、本当は抱えていた言葉を伝えたくても。


 俺は、あの子のために離れることを選んだ。


 ——でも。


 さっきの愛梨の顔が、頭から離れない。


 泣きながら、


 「私が全部思い出せたら……昔みたいに笑ってくれたの?」


 そう聞いてきた。


 あんな顔をさせることが、愛梨を幸せにすることなのか。


 違う。


 そんなわけない。


 「……幸せに、する……?」


 小さく呟く。


 自分で言っておきながら、その言葉がひどく空虚に聞こえた。


 離れていれば、愛梨は傷つかない。


 そう思っていた。


 俺がそばにいなければ、過去を思い出すこともなく、もっと普通に笑える。


 俺なんかを好きにならなければ、苦しまなくて済む。


 そう信じていた。


 ……だけど。


 愛梨は、泣いていた。


 俺が離れたことで。


 俺が「付き合えない」と言ったことで。


 俺が、勝手に彼女の幸せを決めつけたことで。


 「……違うだろ」


 拳を強く握る。


 「俺が……逃げてるだけじゃん」


 愛梨を守るため。


 愛梨のため。


 そう言い聞かせていた。


 でも、本当は違った。


 怖かっただけだ。


 また失うのが。


 また傷つけるのが。


 あの日のように、何もできなくなるのが。


 怖くて。


 だから、愛梨から離れることを選んだ。


 それを「愛梨のため」なんて言葉で隠していた。


 「……もう、無理だ」


 喉の奥から、掠れた声が漏れる。


 さっきの愛梨の涙を思い出す。


 あんな顔をさせてまで離れていることに、どんな意味がある?


 俺がいなくなれば愛梨は幸せになれる。


 ずっとそう思っていた。


 でも。


 愛梨が俺を想って泣いているのを見てしまった今、その考えを貫くことができなかった。


 「離れてる方が……愛梨を幸せにできるって」


 そこで言葉が途切れる。


 胸が苦しい。


 「……もう、そんなの無理だ」


 愛梨が笑っているなら。


 俺がそばにいなくても、それで幸せなら。


 そう思っていた。


 でも、違った。


 俺が離れることで、愛梨があんなふうに泣くなら。


 俺が何も伝えないことで、愛梨が自分を責めるなら。


 それは本当に、愛梨のためなのか。


 「……俺は、愛梨に何してんだ」


 クリスマスの日から、何度も自分に言い聞かせてきた。


 好きだから離れる。


 好きだから、そばにいない。


 好きだから、幸せになってほしい。


 でも。


 好きだからこそ。


 愛梨が泣いているのを見て、何も感じないふりなんてできなかった。


 俺だって、本当は。


 愛梨のそばにいたい。


 笑っているところを見たい。


 くだらないことで話して。


 昔みたいに、一緒に笑いたい。


 それを全部諦めることが、愛梨を幸せにすることだと思っていた。


 でも——


 「……愛梨」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


 それでも、胸の奥では確かに響いていた。


 あの頃の愛梨。


 今の愛梨。


 どちらも、俺にとって大切な愛梨だ。


 過去を思い出せなければ、幸せになれないなんてことじゃない。


 記憶を取り戻すまで、待つだけじゃない。


 俺が本当に怖いのは、過去じゃない。


 もう一度、愛梨を失うことだ。


 だったら。


 もう一度、逃げるのはやめよう。


 すぐに答えを出すことはできない。


 愛梨が思い出すべきことも、俺が伝えなければならないことも、まだたくさんある。


 それでも——


 「……今度は、ちゃんと向き合う」


 小さく呟く。


 離れていることで愛梨を守れる。


 そんな考えに、もう自分自身が耐えられなかった。


 愛梨の涙を見てしまったから。


 ……もう一度、信じてみてもいいんじゃないか。


 愛梨が全部思い出したら。


 あの日の真実を、俺の気持ちを、ちゃんと知ったら。


 今度こそ、言わなきゃいけない言葉がある。


 逃げずに。


 誤魔化さずに。


 「俺じゃダメ」なんて、卑怯な言い訳をせずに。


 今度は俺のほうから言う。


 愛梨、俺のそばにいてほしい。


 守るとか、幸せにするとか、そんな綺麗な言葉だけじゃなくて。


 弱い俺ごと、全部知った上で、それでも隣にいてほしいって。


 俺も、逃げてばっかりはもうやめる。


 例えまた拒絶されてもいい。


 それでも、自分の気持ちに嘘をついたまま終わるほうが、きっとずっと後悔する。


 過去に縛られてたのは、愛梨だけじゃない。


 俺もだ。


 でも——そろそろ、けじめをつけよう。


 雨の日の約束も。


 すれ違った一年も。


 全部抱えたまま。


 そして今度こそ、ちゃんと伝える。



 ───好きだ。


 あの日から、一度も変わらず、ずっと。