慧side
体育館裏を離れて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
冬の終わりの匂いがした。
乾いた風が頬を刺す。
……言った。
全部を思い出してほしいって。
背中を向けたまま、愛梨の気配が遠ざかるのを感じていた。
振り返ったら、きっと決意が揺らぐから。
あの場で抱きしめてしまいそうだったから。
俺は歩きながら、あの日のことを思い返していた。
中学二年生の秋。
音楽室で起きたあの事故のあと、俺と明日香は職員室に呼ばれていた。
いじめの経緯、誰が何をしていたのか、どこまで知っていたのか。
何人もの先生に囲まれて、同じ質問を何度も繰り返される。
蛍光灯の白い光がやけに眩しくて、時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
気づけば、外は真っ暗だった。
窓を叩く雨音が強くなっている。
話が終わった頃には、もう夜中と言ってもいい時間帯だった。
「今日はもう帰りなさい」
先生の声は疲れていた。
明日香の親は、車で迎えに来ていた。
事前に連絡が入っていたらしい。
小さく会釈をして、明日香は車に乗り込んだ。
窓越しに一瞬目が合う。
泣き腫らした目だった。
俺は暗い昇降口に一人で立っていた。
親は来ていない。
仕事で忙しい人たちだ。
いつもそうだった。
俺よりも、仕事優先。
寂しいと思わなかったわけじゃない。
でも、もう慣れていた。
自由ではあったし、干渉もされない。
雨はまだ降っていた。
傘を差せば帰れたけど、足が動かなかった。
帰ったところで、誰もいない家だ。
静まり返った部屋に入っても、余計に考えてしまうだけだ。
俺は教室に戻った。
鞄からノートとペンを取り出す。
震える手で、紙を切り取る。
何から書けばいいか分からなかった。
でも、止まらなかった。
愛梨へ。
ペン先が紙を滑る。
愛梨に出会ってから、俺の世界は色付いた。
愛梨が笑うと、俺も嬉しくて。
愛梨が泣くと、俺も苦しくて。
守りたい。
幸せにしたい。
それだけは、ずっと本気だった。
もし目を覚ましたら、すぐに伝えようと思っていた言葉を、全部書いた。
俺が、愛梨のことを幸せにする。
最後の一文を書き終えた時、不思議なくらい、胸の奥が静かになった。
便箋を丁寧に折って、封筒に入れる。
しっかりと封をする。
その瞬間、雨音が止んでいることに気づいた。
窓越しに空を見上げると、雲の隙間から月が覗いている。
まるで、夜が息をついたみたいだった。
俺は封筒を胸ポケットに入れる。
愛梨。
絶対、目を覚ませよ。
俺は、逃げない。
今度こそ、ちゃんと伝えるから。
下駄箱を開けた瞬間、違和感があった。
いつもより、少しだけ重い。
靴を取り出そうとして、指先に紙の感触が触れた。
白い封筒。
見覚えのある、少し丸い字。
——愛梨だ。
胸が一瞬で冷える。
震える手で封を切る。
中の便箋を開いた瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
私はもう、諦めちゃったのかな。
もう、会うことはないと思う。
一人で大丈夫。
ごめんなさい。
そこまで読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……は?」
声が出たのかどうかも分からない。
諦める?
会わない?
一人で大丈夫?
そんなわけないだろ。
あいつが、どれだけ一人で抱え込んでたか、俺は知ってる。
強がりで、泣き虫で、でも人の前じゃ絶対に弱音を吐かない。
嫌な予感が、どんどん膨らんでいく。
今日のあいつの様子。
最近、無理に笑ってたこと。
靴をきちんと履く余裕もなかった。
かかとを踏み潰したまま、俺は走り出していた。
どこに行く。
どこに行ったんだよ、愛梨。
橋の上で足を止めた瞬間、空気が違った。
夜の湿った匂い。
川の流れる低い音。
そして——暗闇の中、きらりと光る二つの目。
黒猫だった。
闇に溶け込む小さな身体。
じっと俺を見つめ、にゃあ、と鳴く。
まるで、ついてこいと言っているみたいに。
猫はくるりと背を向け、橋の下へと軽やかに降りていく。
胸騒ぎがして、俺は後を追った。
橋の下は冷たく湿っていて、コンクリートは雨で濡れている。
街灯の光も届かない、薄暗い空間。
その奥に、小さな影が座り込んでいた。
「……愛梨」
駆け寄る。
制服は雨で濡れ、髪は頬に張り付いている。
呼びかけても、すぐには反応がない。
「愛梨、大丈夫か? おい……!」
肩に触れると、かすかに身体が揺れた。
ちゃんと息をしている。
力が抜けそうになりながらも、さっき読んだ手紙の言葉が頭をよぎる。
迷惑をかけるのは、終わりにする。
一人で大丈夫。
……違う。
愛梨の「大丈夫」は、いつも嘘だ。
俺のことを思って、俺に迷惑をかけないように、一人で全部抱え込もうとしたんだろ。
胸が締め付けられる。
俺が——俺がもっと早く気づいていれば。
俺がもっと強ければ。
俺が、ちゃんと隣に立てる人間だったら。
愛梨は、こんなにも自分を追い詰めずに済んだんじゃないか。
「……俺のせい、だよな」
雨の雫が、橋の隙間からぽたりと落ちる。
俺がそばにいるから、愛梨は「迷惑をかけている」って思い込んだ。
俺が守るって言ったから、守られる自分を、嫌になったのかもしれない。
俺がいる限り、愛梨はまた自分を追い詰めるんじゃないか。
だったら——俺は。
何もかも封じ込めて、離れた方がいいんじゃないか。
好きだなんて言わない。
そばにいるなんて言わない。
守るなんて、もう言わない。
愛梨が笑っていられるなら、俺が嫌われてもいい。
俺がいない方が、あいつが少しでも楽になれるなら。
濡れたその身体を支える。
「……守りたいんだよ」
でも、守る方法が分からない。
傍にいることが、傷になるなら。
俺の存在が、あいつを追い詰めるなら。
——離れるしか、ないのか。
黒猫が、少し離れた場所からこちらを見ている。
責めるでもなく、ただ静かに。
俺は愛梨のそばに座ったまま、静かに目を閉じた。
「ごめん、愛梨」
この時、俺は決めたんだ。
好きだという気持ちを、全部胸の奥に封じ込めるって。
愛梨を守るために。
俺は、愛梨から離れる。
震える手で、俺はポケットからさっき書いた手紙を取り出した。
雨で少し湿った封筒。
インクが滲まないように、手のひらでそっと庇う。
一度、目を閉じる。
そして、裏側に震える字で書き加えた。
——約束、守れなくてごめん。
愛梨を幸せにする。
そう書いたばかりなのに。
俺は今、隣に立つ覚悟から逃げようとしている。
橋の下に転がっていた、古びた鉄の箱。
錆び付いて、角が丸くなっていて、何年もここに放置されていたことが分かる。
その中に、俺が書いた手紙。
お揃いの、小さな星屑入りのキーホルダー。
そして——下駄箱に入っていた、愛梨の手紙。
全部、閉じ込めた。
ぎい、と鈍い音を立てて蓋を閉める。
まるで、自分の気持ちを封じ込めるみたいだった。
そのあと、震える指でスマホを操作する。
「……救急です」
自分の声が、やけに冷静で、他人事みたいに聞こえた。
救急車のサイレンが近づく音。
赤い光が橋の下を照らす。
担架に乗せられる愛梨。
離れたくなかったけど、俺は一歩下がった。
俺がそばにいると、また追い詰めるかもしれないから。
救急車に同乗して、病院へ向かう。
車内の消毒液の匂いが鼻を刺す。
モニターの電子音が、規則正しく鳴っている。
生きてる。
それだけで、泣きそうになる。
病院に着いてしばらくして、愛梨の家族が駆け込んできた。
お母さんは、顔色を失っていた。
処置が終わり、状況が落ち着いた頃、俺は廊下で深く頭を下げられた。
「……迷惑をかけてしまってごめんなさい。いつも助けてくれて、ありがとう」
違う。
迷惑なんて、思ったことない。
でも、その言葉を飲み込む。
俺は、静かに説明した。
いじめのこと。
最近ひどくなっていたこと。
今日、橋の下で倒れていたこと。
話している間、拳が震えていた。
守れなかった。
もっと早く動けたはずだ。
もっと早く気づけたはずだ。
「……ごめんなさい」
お母さんの声が小さく震える。
謝るのは俺の方だ。
でも、言わない。
俺が「守る」と言ったせいで、愛梨は一人で抱え込んだのかもしれないから。
廊下の窓の外には、まだ雨が降っていた。
ガラスを伝う水滴が、まるで泣いているみたいだった。
病室の扉の向こうで、愛梨は眠っている。
俺はその前に立ちながら、心の中で呟いた。
——もう、迷惑なんて思わせない。
でも。
そのためには、俺は、離れるしかないんだ。
好きだなんて、もう言わない。
守るなんて、言わない。
ただ、遠くから。
君が笑える世界を、願うだけでいい。
そう決めたのに。
胸の奥が、痛くて仕方なかった。
体育館裏を離れて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
冬の終わりの匂いがした。
乾いた風が頬を刺す。
……言った。
全部を思い出してほしいって。
背中を向けたまま、愛梨の気配が遠ざかるのを感じていた。
振り返ったら、きっと決意が揺らぐから。
あの場で抱きしめてしまいそうだったから。
俺は歩きながら、あの日のことを思い返していた。
中学二年生の秋。
音楽室で起きたあの事故のあと、俺と明日香は職員室に呼ばれていた。
いじめの経緯、誰が何をしていたのか、どこまで知っていたのか。
何人もの先生に囲まれて、同じ質問を何度も繰り返される。
蛍光灯の白い光がやけに眩しくて、時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえていた。
気づけば、外は真っ暗だった。
窓を叩く雨音が強くなっている。
話が終わった頃には、もう夜中と言ってもいい時間帯だった。
「今日はもう帰りなさい」
先生の声は疲れていた。
明日香の親は、車で迎えに来ていた。
事前に連絡が入っていたらしい。
小さく会釈をして、明日香は車に乗り込んだ。
窓越しに一瞬目が合う。
泣き腫らした目だった。
俺は暗い昇降口に一人で立っていた。
親は来ていない。
仕事で忙しい人たちだ。
いつもそうだった。
俺よりも、仕事優先。
寂しいと思わなかったわけじゃない。
でも、もう慣れていた。
自由ではあったし、干渉もされない。
雨はまだ降っていた。
傘を差せば帰れたけど、足が動かなかった。
帰ったところで、誰もいない家だ。
静まり返った部屋に入っても、余計に考えてしまうだけだ。
俺は教室に戻った。
鞄からノートとペンを取り出す。
震える手で、紙を切り取る。
何から書けばいいか分からなかった。
でも、止まらなかった。
愛梨へ。
ペン先が紙を滑る。
愛梨に出会ってから、俺の世界は色付いた。
愛梨が笑うと、俺も嬉しくて。
愛梨が泣くと、俺も苦しくて。
守りたい。
幸せにしたい。
それだけは、ずっと本気だった。
もし目を覚ましたら、すぐに伝えようと思っていた言葉を、全部書いた。
俺が、愛梨のことを幸せにする。
最後の一文を書き終えた時、不思議なくらい、胸の奥が静かになった。
便箋を丁寧に折って、封筒に入れる。
しっかりと封をする。
その瞬間、雨音が止んでいることに気づいた。
窓越しに空を見上げると、雲の隙間から月が覗いている。
まるで、夜が息をついたみたいだった。
俺は封筒を胸ポケットに入れる。
愛梨。
絶対、目を覚ませよ。
俺は、逃げない。
今度こそ、ちゃんと伝えるから。
下駄箱を開けた瞬間、違和感があった。
いつもより、少しだけ重い。
靴を取り出そうとして、指先に紙の感触が触れた。
白い封筒。
見覚えのある、少し丸い字。
——愛梨だ。
胸が一瞬で冷える。
震える手で封を切る。
中の便箋を開いた瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
私はもう、諦めちゃったのかな。
もう、会うことはないと思う。
一人で大丈夫。
ごめんなさい。
そこまで読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……は?」
声が出たのかどうかも分からない。
諦める?
会わない?
一人で大丈夫?
そんなわけないだろ。
あいつが、どれだけ一人で抱え込んでたか、俺は知ってる。
強がりで、泣き虫で、でも人の前じゃ絶対に弱音を吐かない。
嫌な予感が、どんどん膨らんでいく。
今日のあいつの様子。
最近、無理に笑ってたこと。
靴をきちんと履く余裕もなかった。
かかとを踏み潰したまま、俺は走り出していた。
どこに行く。
どこに行ったんだよ、愛梨。
橋の上で足を止めた瞬間、空気が違った。
夜の湿った匂い。
川の流れる低い音。
そして——暗闇の中、きらりと光る二つの目。
黒猫だった。
闇に溶け込む小さな身体。
じっと俺を見つめ、にゃあ、と鳴く。
まるで、ついてこいと言っているみたいに。
猫はくるりと背を向け、橋の下へと軽やかに降りていく。
胸騒ぎがして、俺は後を追った。
橋の下は冷たく湿っていて、コンクリートは雨で濡れている。
街灯の光も届かない、薄暗い空間。
その奥に、小さな影が座り込んでいた。
「……愛梨」
駆け寄る。
制服は雨で濡れ、髪は頬に張り付いている。
呼びかけても、すぐには反応がない。
「愛梨、大丈夫か? おい……!」
肩に触れると、かすかに身体が揺れた。
ちゃんと息をしている。
力が抜けそうになりながらも、さっき読んだ手紙の言葉が頭をよぎる。
迷惑をかけるのは、終わりにする。
一人で大丈夫。
……違う。
愛梨の「大丈夫」は、いつも嘘だ。
俺のことを思って、俺に迷惑をかけないように、一人で全部抱え込もうとしたんだろ。
胸が締め付けられる。
俺が——俺がもっと早く気づいていれば。
俺がもっと強ければ。
俺が、ちゃんと隣に立てる人間だったら。
愛梨は、こんなにも自分を追い詰めずに済んだんじゃないか。
「……俺のせい、だよな」
雨の雫が、橋の隙間からぽたりと落ちる。
俺がそばにいるから、愛梨は「迷惑をかけている」って思い込んだ。
俺が守るって言ったから、守られる自分を、嫌になったのかもしれない。
俺がいる限り、愛梨はまた自分を追い詰めるんじゃないか。
だったら——俺は。
何もかも封じ込めて、離れた方がいいんじゃないか。
好きだなんて言わない。
そばにいるなんて言わない。
守るなんて、もう言わない。
愛梨が笑っていられるなら、俺が嫌われてもいい。
俺がいない方が、あいつが少しでも楽になれるなら。
濡れたその身体を支える。
「……守りたいんだよ」
でも、守る方法が分からない。
傍にいることが、傷になるなら。
俺の存在が、あいつを追い詰めるなら。
——離れるしか、ないのか。
黒猫が、少し離れた場所からこちらを見ている。
責めるでもなく、ただ静かに。
俺は愛梨のそばに座ったまま、静かに目を閉じた。
「ごめん、愛梨」
この時、俺は決めたんだ。
好きだという気持ちを、全部胸の奥に封じ込めるって。
愛梨を守るために。
俺は、愛梨から離れる。
震える手で、俺はポケットからさっき書いた手紙を取り出した。
雨で少し湿った封筒。
インクが滲まないように、手のひらでそっと庇う。
一度、目を閉じる。
そして、裏側に震える字で書き加えた。
——約束、守れなくてごめん。
愛梨を幸せにする。
そう書いたばかりなのに。
俺は今、隣に立つ覚悟から逃げようとしている。
橋の下に転がっていた、古びた鉄の箱。
錆び付いて、角が丸くなっていて、何年もここに放置されていたことが分かる。
その中に、俺が書いた手紙。
お揃いの、小さな星屑入りのキーホルダー。
そして——下駄箱に入っていた、愛梨の手紙。
全部、閉じ込めた。
ぎい、と鈍い音を立てて蓋を閉める。
まるで、自分の気持ちを封じ込めるみたいだった。
そのあと、震える指でスマホを操作する。
「……救急です」
自分の声が、やけに冷静で、他人事みたいに聞こえた。
救急車のサイレンが近づく音。
赤い光が橋の下を照らす。
担架に乗せられる愛梨。
離れたくなかったけど、俺は一歩下がった。
俺がそばにいると、また追い詰めるかもしれないから。
救急車に同乗して、病院へ向かう。
車内の消毒液の匂いが鼻を刺す。
モニターの電子音が、規則正しく鳴っている。
生きてる。
それだけで、泣きそうになる。
病院に着いてしばらくして、愛梨の家族が駆け込んできた。
お母さんは、顔色を失っていた。
処置が終わり、状況が落ち着いた頃、俺は廊下で深く頭を下げられた。
「……迷惑をかけてしまってごめんなさい。いつも助けてくれて、ありがとう」
違う。
迷惑なんて、思ったことない。
でも、その言葉を飲み込む。
俺は、静かに説明した。
いじめのこと。
最近ひどくなっていたこと。
今日、橋の下で倒れていたこと。
話している間、拳が震えていた。
守れなかった。
もっと早く動けたはずだ。
もっと早く気づけたはずだ。
「……ごめんなさい」
お母さんの声が小さく震える。
謝るのは俺の方だ。
でも、言わない。
俺が「守る」と言ったせいで、愛梨は一人で抱え込んだのかもしれないから。
廊下の窓の外には、まだ雨が降っていた。
ガラスを伝う水滴が、まるで泣いているみたいだった。
病室の扉の向こうで、愛梨は眠っている。
俺はその前に立ちながら、心の中で呟いた。
——もう、迷惑なんて思わせない。
でも。
そのためには、俺は、離れるしかないんだ。
好きだなんて、もう言わない。
守るなんて、言わない。
ただ、遠くから。
君が笑える世界を、願うだけでいい。
そう決めたのに。
胸の奥が、痛くて仕方なかった。


