記憶の欠片

 記憶が一気に繋がり、意識が、今の私へと戻ってきた。


 ずっと思っていた。


 ハープが倒れた、あの日の強い衝撃で、私は“事故で”記憶を失ったのだと。


 でも、違った。


 私は——自分で、意識と記憶を閉じた。


 壊れてしまわないために。


 これ以上、感じ続けられなかったから。


 だから、心が先に限界を迎えて、私を守るために、世界の音を遮断した。


 冷たい風が頬を撫でる。


 橋の下の湿った空気が、今の私を現実に引き戻す。


 もう一枚の手紙を、そっと取り出す。


 指先に伝わる紙の感触が、やけに現実的で、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 私に宛てられた文字。


 慧の、少し癖のある筆跡。


 封は、まだ切られていない。


 長い時間、誰にも開かれずにここで眠り続けていたんだと思うと、それだけで息が詰まりそうになる。


 この中に何が書かれているのか、分からない。


 優しい言葉かもしれないし、突き放すような言葉かもしれない。


 でも——今の私は、もう逃げない。


 震える手で、封の端に指をかける。


 紙が擦れる、かすかな音。


 その音が、やけに大きく響いた。


 心臓の音が、耳の奥でうるさい。


 まるで「ちゃんと受け止めろ」と言われているみたいだ。


 深く息を吸って、ゆっくり、封を切る。


 ……慧。


 あなたは、あの時。


 どんな気持ちで、この手紙を書いたの?


 私は、逃げない。


 たとえどんな言葉が待っていても——今度こそ、ちゃんと向き合う。


 そう心の中で呟いて、私は手紙を開いた。


 震える指で、便箋を広げる。


 そこにあった文字は、驚くほどまっすぐで、優しかった。



愛梨へ


愛梨に出会ってから、俺の世界は色付いた。

昨日までと同じ景色のはずなのに、

君が笑うだけで、全部が違って見えた。


愛梨は、俺のことをどう思ってるんだろうって、

毎日そればかり考えてた。

情けないくらい、それだけで頭がいっぱいだった。


愛梨に、ずっと俺のそばにいてほしい。

俺の隣で、笑っていてほしい。

そして、俺を――信じてほしい。


約束するよ。

俺が、愛梨のことを幸せにする。



慧より



 文字を追うたびに、胸の奥が熱くなって、息の仕方を忘れてしまいそうになる。


 こんなにも、こんなにも大切に想ってくれていたのに。


 私が、あの時——自分から目を閉じてしまっただけだった。


 手紙を胸に抱きしめる。


 錆びた缶の中で眠っていた想いが、今、ようやく私の中で息をし始めた。


 ——私、ずっと勘違いしてたんだ。


 迷惑をかけてるって。


 慧の優しさに、甘えてるだけなんだって。


 でも、本当は違った。


 私のあの行動は——慧の隣にいること、そのものを拒絶してしまったんだ。


 封筒を裏返す。


 そこに書かれていた、短い一文。



約束、守れなくてごめん。

ずっと、好きでした。



 それだけで、十分すぎるほど伝わってしまった。


 ……あぁ。


 やっぱり、もう遅いのかな。


 彼は、もう前を向いて進んでいる。


 過去を探るので精一杯の私じゃ…。


 視界が滲んで、文字が溶ける。


 溢れ出した涙は止まらなくて、胸の奥に溜め込んでいた後悔が、一気に零れ落ちていく。


 この想い、届かなかった。


 あの時、ちゃんと伝えていれば。


 逃げずに、慧の手を取っていれば。


 過去を手放した私。


 自分から隣にいる未来を拒んだ私じゃ——もう、ダメなんだ。


 ゆっくりと、深呼吸をする。


 胸が痛むたびに、名前を呼びたくなるのを堪えながら。


 これ以上、慧を傷つけないために。


 私ができる、最後の選択は——ひとつだけ。


 私は、慧のことを諦める準備を、静かに始めた。




 一年ぶりに再会した彼は、驚くほどかっこよくなっていた。


 背が伸びて、声も少し低くなって、表情には余裕みたいなものが滲んでいる。


 大人びていて——もう、私の知っている「慧」だけじゃない。


 同じ名前なのに、同じ笑い方なのに。


 距離は、こんなにも遠くなってしまったんだと、胸の奥で理解してしまう。


 話しかける勇気も、視線を合わせる勇気もなくて。


 ただ、遠くからその姿を見つめることしかできなくなった。


 あの頃に戻りたい。


 何も疑わず、何も諦めず、隣にいることが当たり前だった時間に。


 そう思えば思うほど、胸が締め付けられて、言葉にならない感情が喉の奥までせり上がってくる。


 気づいたら、涙が止まらなかった。


 声を殺して、ひたすら、ただひたすら泣き続けた。


 もう戻れないと分かっているからこそ、失ったものの大きさだけが、痛いほどはっきりしていた。