——中学二年生の、秋。
頭の奥がじんと痺れて、重たい瞼をゆっくりと開く。
天井が見えた。
見慣れた、保健室の天井。
「……目、覚めた?」
先生の声が、少し遅れて耳に届く。
私はぼんやりと瞬きをして、状況を理解しようとするけれど、頭がうまく働かない。
「大丈夫? 一時的に意識を失ってたのよ」
そう言われて、ようやく思い出す。
音楽室。
ハープ。
張り詰めた弦の音と、嫌な予感。
「月城くんがね、すぐに気づいてくれたの」
その名前を聞いた瞬間、胸がきゅっと縮む。
「先生を呼んで、ずっとそばにいてくれたのよ」
……まただ。
また、慧。
私は何もできなくて、倒れて、怖くなって、動けなくなって。
そのたびに、慧が来てくれる。
ありがとう、って思う。
助けてくれて嬉しいって、心から思う。
でも同時に、胸の奥に黒い不安が広がっていく。
——また、迷惑をかけた。
——また、慧に頼ってしまった。
自分の問題なのに。
自分で立ち上がらなきゃいけないのに。
「大丈夫だよ」
そう言って笑う慧の顔が、頭から離れない。
その優しさに、縋ってしまいそうになる自分が、怖かった。
もし、このままじゃ——
もし、慧がいなくなったら?
考えただけで、息が詰まる。
慧が離れていってしまったら、私、どうやって立っていればいいの?
慧がいない世界なんて、想像できなくて。
それは「好き」なんて言葉じゃ足りない、もっと歪んで、重たい感情だった。
——依存してる。
その事実に、薄々気づいていた。
だからこそ、怖かった。
このままじゃ、私は慧の隣にいられなくなる。
呆れられる。
見放される。
そうなる前に、自分から離れなきゃいけない。
……そう思ってしまったんだ。
頭がまだ少し重くて、世界がふわふわと遠い。
それでも、不思議と心だけは静かだった。
……書こう。
今なら、書ける。
そう思って、ノートを一冊取り出した。
震える手でペンを握る。
何度も息を整えてから、ゆっくりと言葉を落としていった。
もう、会う事はないと思う。
その一文を書いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられたけれど、消さなかった。
消したら、また迷ってしまう気がしたから。
感謝も、謝罪も、全部そこに置いていく。
これ以上、慧の時間を奪わないために。
これ以上、自分が彼に縋らないために。
書き終えた手紙を封筒に入れて、シールを貼る。
指先が冷たくなっているのに、心臓の音だけがやけに大きい。
放課後。
誰もいない昇降口。
慧の下駄箱の前に立つと、足が一瞬だけ止まった。
でも、もう振り返らないと決めていた。
そっと、手紙を入れる。
扉を閉めた音が、やけに大きく響いた。
それだけで、全部が終わった気がした。
家に帰ると、やっぱり誰もいなかった。
静まり返ったリビング。
時計の秒針の音だけが、規則正しく刻まれている。
「……誰も、止める人はいない」
呟いてみても、返事はない。
私はスマホと財布だけを掴んで、靴を履いた。
鍵を閉める音すら、しなかった。
外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。
行き先なんて、決めていない。
地図も、目的も、理由もない。
ただ、私は歩き出す。
夕焼けの中に、自分の影だけを連れて。
その先に何があるのかなんて、分からないまま。
雨が、降り出した。
しとしとと、音を立てて落ちてくる秋雨。
気づけば私は、中学校の近くにある小川の橋の下に立っていた。
無意識だった。
足が、勝手にここへ連れてきたみたいだった。
濡れた上着をぎゅっと絞って、顔を上げる。
空は真っ黒で、月も星も見えない。
雨は止む気配を見せず、ただ同じリズムで地面を叩き続けている。
橋の下は暗くて、冷たくて、ひどく静かだった。
車の音も、人の声も、遠くに滲んで聞こえるだけ。
ここには、私しかいない。
……孤独だ。
そう思った瞬間、どっと力が抜けた。
今まで無理やり立っていた糸が、ぷつんと切れたみたいに。
疲れが、一気に押し寄せてくる。
身体じゃない。
心の奥の、もっと深いところから。
今まで、見ないふりをしてきた。
感じないように、蓋をしてきた。
「大丈夫」「平気」「一人でも平気」
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
でも——もう、無理だった。
胸の奥に溜め込んでいた感情が、溢れ出す。
それは突然で、止め方も分からなくて。
まるで、雨の中にずっと放置していたバケツが、気づかないうちに満杯になって、縁から静かに、でも確実に水をこぼし始めるみたいに。
ぽた、ぽた、と。
最初は小さかったはずなのに、気づけば止まらない。
悔しさも、寂しさも、怖さも、慧くんに置いていかれたくなかった気持ちも、一人になることを選んだはずなのに、一人が怖いっていう矛盾も。
全部、雨音に紛れて零れ落ちていく。
橋の下で、私はただ立ち尽くしていた。
濡れることも、寒さも、どうでもよくて。
暗い空間に、一人。
雨だけが、私の代わりに泣いてくれているみたいで。
今なら、全部を手放せる気がした。
そう思って、ゆっくりと目を閉じる。
学校。
ずっと、しんどかった。
直接、刃みたいな言葉を向けてくる人。
自分は安全な場所にいながら、噂や視線だけを投げてくる人。
どこにいても、逃げ場はなかった。
夜になると、決まって夢を見る。
暗い教室。
笑う声。
耳を塞いでも消えない言葉たち。
「汚い人間」
「よく来れるよね」
「生きてる意味ない」
……そうだよね。
生きてる意味なんて、ないのかもしれない。
気づけば、胸の奥がひどく痛かった。
息をするたび、そこに冷たい空気が流れ込んでくるみたいで。
ずっと、独りだった。
誰かがそばにいてくれても、本当の気持ちは言えなくて、分かってほしくて、でも迷惑をかけたくなくて。
——寂しかった。
ぽつり、とその言葉が心の中で落ちる。
そのとき。
にゃあ、という小さな声がした。
目を開けると、橋の下の暗がりで、小さな黒猫がこちらを見ていた。
さっきまで微動だにしなかったはずなのに、今は少しだけ距離を縮めて、濡れた地面に前足を揃えている。
雨音の中で、その存在だけが妙にはっきりしていた。
「君も一人なの?」
その呼びかけに答えるように、猫は私の傍に寄り、体を預けてきた。
その小さな体からつたわる体温は、冷えきった心をじんわりと溶かしていく様で。
ずっと私の事を守ってくれていた彼のことを思い出させた。
慧。
君まで遠くへ行ってしまったら、私はきっと、自分がここにいる理由を見失ってしまう。
……ひとりでいいなんて、嘘だった。
強がって、突き放して、守ったつもりで、本当は、ずっと誰かを求めていた。
ずっと、好きだったんだな。
今になって、ようやく分かる。
できるなら、やり直したい。
何も壊れていない、誰の声にも傷つけられない世界で、君と、もう一度。
——ごめんね、私。
胸の奥が限界だと、静かに知らせてくる。
これ以上、抱えきれない。
これ以上、思い出していたら、壊れてしまう。
私は、深く息を吐いて、目を閉じた。
雨音が遠ざかっていく。
冷たさも、重さも、少しずつ輪郭を失っていく。
辛かった記憶。
怖かった言葉。
押し殺してきた感情。
それらが、ひとつ、またひとつと、指の間から零れ落ちるように離れていった。
——忘れたかったわけじゃない。
ただ、生きるために、手放すしかなかった。
その日、私は自分を守るために、記憶の扉を閉じた。
そして、世界は少しだけ静かになった。


