記憶の欠片

 冬休みが明けて、数日。


 今日はクラスマッチだった。


 体育館では、次の競技に向けて準備する生徒たちの声が飛び交っている。


 休憩時間になり、私は人の波の中で一人、水を飲んでいた。


 その時だった。


 少し離れた廊下に、見覚えのある黒髪が見えた。


「……慧」


 思わず、名前がこぼれる。


 慧は一人で歩いていた。


 その背中を見つけた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。


 ——今、話さなきゃ。


 そう思った。


 私はペットボトルを置き、慧の背中を追いかける。


「慧!」


 声に反応して、彼が足を止めた。


 ゆっくりと振り返る。


 目が合った瞬間、胸が苦しくなった。


「……愛梨」


 名前を呼ばれただけなのに。


 嬉しいはずなのに。


 どうしてか、泣きそうになった。


「……ちょっと、話したい」


 私がそう言うと、慧は少しだけ目を伏せた。


「……うん」


 体育館から聞こえる歓声を背に、私たちは人の少ない廊下へ移動した。


 窓の外には、冬の白い空。


 冷たい光が、静かな廊下を照らしている。


 私は何度も息を吸った。


 口を開こうとしても、喉が震えて上手く声が出ない。


 それでも、言わなきゃ。


「私……」


 一度、唇を噛む。


「私、諦められない」


 慧の瞳が揺れた。


「クリスマスの日に振られたけど……」


 声が少し震える。


「それでも、諦められないの」


 言葉を続けようとした瞬間、胸の奥が詰まった。


 泣きたくなんてない。


 こんなところで泣いたら、困らせる。


 そう思っているのに、目の奥が熱くなっていく。


「私……慧のことが好き」


 慧は何も言わなかった。


 ただ、困ったように眉を寄せている。


 その表情を見た瞬間。


 胸の奥にあった不安が、一気に溢れ出した。


「……なんで?」


 声が震える。


「なんで、そんな顔するの……?」


 慧が何か言おうとする。


 でも、私は止まらなかった。


「私の……記憶がないから?」


 目の奥が熱い。


 必死に瞬きをする。


 涙を落としたくなかった。


「それとも……私が、迷惑だから……?」


「愛梨、違う——」


「じゃあ、なんで……」


 声が掠れる。


 とうとう、一粒だけ涙が頬を伝った。


 慌てて袖で拭う。


 でも、一度溢れた涙は止まってくれなかった。


「……ごめん」


 俯く。


「泣きたくないのに……」


 唇が震える。


「慧を困らせたいわけじゃないのに……」


 涙がまた落ちる。


「ただ……」


 顔を上げる。


 視界が滲んで、慧の顔がぼんやりと揺れて見えた。


「私に記憶があれば……昔みたいに笑ってくれたの……?」


 慧の表情が、固まった。


「私が全部思い出せたら……」


 声が震えて、最後の言葉がうまく出てこない。


「……また、私のこと好きになってくれる……?」


 言った瞬間、胸が苦しくなった。


 聞かなければよかった。


 答えを聞くのが怖い。


 それでも、もう引き返せなかった。


「私……慧のこと、何も知らないみたいで……」


 涙を拭いながら、途切れ途切れに言葉を続ける。


「昔の私が、慧とどんなふうに笑ってたのかも……何を話してたのかも……」


「何を大切にしてたのかも……」


 ぎゅっと制服の袖を握る。


「分からないの……」


 声が震える。


「だから……」


 また涙が落ちた。


「私が今、どれだけ慧のことを好きでも……昔の私には敵わないのかなって……」


 慧は、何も言わなかった。


 ただ、苦しそうに私を見つめていた。


 その目を見ていると、余計に泣きそうになる。


「……ごめん」


 私は小さく呟いた。


「こんなこと言われても、困るよね……」


 俯いた瞬間。


「愛梨」


 静かな声が、降ってきた。


 顔を上げる。


 慧は、まっすぐ私を見ていた。


「俺は……」


 一度、言葉を止める。


「愛梨に、全部思い出してほしい」


「……全部?」


 慧は小さく頷いた。


「中学の頃のことも」


 胸の奥が、ざわつく。


「俺たちが一緒にいた時間も」


 頭の奥が、ずき、と痛んだ。


 一瞬だけ。


 何かが見えた気がした。


 でも、それはすぐに消えてしまう。


「……っ」


 私はこめかみに手を当てる。


 何?


 今の……。


 慧はそんな私を見つめたまま、静かに続けた。


「中学の近くに、小川があるだろ」


「……小川?」


「うん」


 慧の声は、いつもより少しだけ低かった。


「そこの橋の下に……俺と愛梨の全部が埋まってる」


「……私と、慧の……全部?」


「…うん」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥が、強く締め付けられた。


 知らないはずなのに。


 なぜか、知っている気がする。


 冷たい水の音。


 夕暮れの光。


 誰かの笑い声。


 そんな断片が、頭の中を一瞬だけよぎった。


「……分からない」


 私は涙を拭きながら呟く。


「何も……分からないよ……」


 悔しかった。


 知りたいのに。


 思い出したいのに。


 自分の中にあるはずの大切なものに、手が届かない。


「……慧」


 涙で濡れた声で名前を呼ぶ。


「私、ちゃんと思い出せるかな……?」


 慧は少しだけ目を細めた。


「思い出せるよ」


「……どうして?」


「愛梨だから」


 その言葉に、また涙が溢れそうになる。


 慧はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、私を見つめている。


 そして——


「自分で見つけてほしい」


 そう言って、慧は踵を返した。


「待って……!」


 思わず声を上げる。


 けれど、慧は振り返らなかった。


 遠ざかっていく背中を見つめながら、私はその場に立ち尽くす。


 涙を拭っても、次から次へと溢れてくる。


「……小川」


 震える声で呟く。


「……橋の下……」


 慧の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 ——俺と愛梨の全部が埋まってる。


 胸の奥が、どうしようもなく苦しい。


 でも。


 ほんの少しだけ。


 怖いだけじゃない。


 何かを見つけられる気がした。


 ずっと閉じていた記憶の扉が、今。


 ほんの少しだけ、開き始めたような気がした。


「……思い出したい」


 涙を拭う。


「全部……思い出したい」


 今度こそ。


 自分の過去から逃げないために。


 そして——


 慧と過ごした、本当の時間を取り戻すために。