記憶の欠片

 部屋は静まり返っていた。


 エアコンの小さな音と、壁掛け時計の針の音だけがやけに大きくて、振られた、という事実を何度も突きつけてくる。


 ベッドの上で膝を抱え、スマホを握りしめる。


 迷った末に、日菜の名前をタップした。


 ——プルルル。


 コール音が途切れて、すぐに電話が繋がる。


「……日菜……」


 それだけで、もうダメだった。


 日菜の声が聞こえた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す。


 本当は、ずっと我慢してた。


 告白した勇気も、断られた瞬間の衝撃も、全部胸の奥に押し込めていた。


「……振られちゃった……」


 自分の声が震えているのが分かる。


《えっ?》


 一瞬の間のあと、驚いた声が返ってくる。


《慧に、振られた……?!》


 その一言で、また涙が溢れた。


 言葉にならなくて、ただ嗚咽だけが漏れる。


 それからしばらく、日菜は何も聞かずに、ずっと話しかけてくれた。


「愛梨は悪くないよ」


「ちゃんと想いを伝えられたの、すごいよ」


 優しい言葉を、何度も、何度も。


 私が泣き止むまで、電話は切れなかった。


「……ごめん、遅くにありがとう」


 声が少し落ち着いた頃、そう言うと、


《何かあったら、すぐ言ってね》


 その言葉に、また胸がいっぱいになる。


 通話が終わり、画面が暗くなる。


 そのままスマホを胸に抱いたまま、私はいつの間にか眠ってしまっていた。


 ——そして、次の日。


 目を覚ますと、瞼が重い。


 鏡を見て、赤く腫れた目元に思わずため息が出る。


 コンシーラーで必死に隠して、マフラーを巻いて、家を出た。


 このまま家にいたら、きっと慧のことばかり考えてしまう。


 少しでも落ち着きたくて。


 傷ついた心を癒したくて。


 私はカフェに向かうことにした。


 ——あの、湊音くんが働いているカフェ。


 ドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いがふわっと広がる。


 店内は落ち着いた音楽が流れていて、外の寒さが嘘みたいに暖かい。


 ……ここなら、少しだけ、息ができそう。


 私はそう思いながら、静かに席に腰を下ろした。


 カウンター席に座ると、そこには湊音くんがいた。


 エプロン姿で、いつもより少し大人っぽく見える。


 周りを見渡すと、近くの席には誰もいない。


 静かな店内で、コーヒーを淹れる音だけが響いている。


 私はカウンターに視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。


「……好きな人に、振られたの」


 自分でも驚くくらい、小さな声だった。


 でも、その言葉は確かに空気に溶けていく。


 湊音くんの手が、一瞬止まるのが視界の端で分かった。


「私、慧のこと……諦められないよ」


 そう言った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 情けなくて、未練がましくて。


 それでも、これが私の本音だった。


 湊音くんは少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに表情を和らげる。


 何も言わず、私の前に温かいカップを置いてくれた。


「……無理に諦めなくていいんじゃない?」


 優しい声だった。


 慰めるというより、受け止めるみたいな声音。


「好きな気持ちって、スイッチみたいに切れないでしょ」


 私はカップを両手で包み込む。


 温もりが、じんわり指先から伝わってきた。


「振られたからって、全部否定されたわけじゃないと思うよ」


 その言葉に、思わず顔を上げる。


 湊音くんは、私をまっすぐ見ていた。


 同情でも、気遣いすぎでもない、静かな目。


「今は辛いよな。でもさ、星宮が誰かを本気で好きになれたってこと、それだけで……すごいことだと思う」


 胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ溶けた気がした。


「……ありがとう」


 そう言うと、湊音くんは小さく笑った。


「ここにいる間くらい、無理に元気出さなくていいよ。俺、コーヒーくらいは美味しく淹れられるからさ」


 その言葉に、思わず少しだけ口元が緩む。


 カフェの静けさと、温かい飲み物と、誰かがそばにいる安心感。


 凍りついていた心が、ほんの少しだけ解けていくのを感じていた。


 湊音くんと日菜に相談して、自分の気持ちがようやくはっきりした。


 振られて、確かに傷ついたし、辛かった。


 それでもやっぱり、諦めたくないんだ。


 今の私が、もう一度告白することはできない。


 だけど——。


 記憶の欠片を集めたら。


 必ず、もう一度、慧に伝えに行く。


 だって、大好きなんだ。


 絶対、振り向かせる。