記憶の欠片

 慧side



 ずっと、好きでした。


 その言葉が、耳に、胸に、深く刺さる。


 冬の冷たい空気の中で、愛梨の声は柔らかく、透き通るように響いた。


 少し掠れて、それでもまっすぐで。


 誰も傷つけないような、優しい温もりを含んだ声。


 その声を聞くたびに、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 ——俺もだよ。


 そう言いたい。


 今すぐ、その小さな身体を抱きしめて、もう二度と離したくない。


 ずっと、こうしてそばにいたかった。


 あの頃から、ずっと。


 でも——。


 ダメだ。


 ダメなんだ。


 唇を噛み締める。


 ここで本当の気持ちを伝えてしまえば、今まで築いてきた時間も、この雪に包まれた静かな夜も、全部壊れてしまいそうだった。


 俺は、愛梨を幸せにできない。


 その現実を、俺はもう知っている。


 中学時代のあの日。


 音楽室で倒れた愛梨を目の前にして、俺は何もできなかった。


 手を伸ばすのが遅かった。


 もっと早く気づいていれば。


 もっと早く、そばに行けていれば。


 あの時、何かできたかもしれない。


 何度そう考えても、過去は変わらない。


 目の前で大切な人が傷ついていくのを、ただ見ていることしかできなかった。


 その後悔は、時間が経っても消えてくれなかった。


 だから、怖い。


 また俺が愛梨のそばにいたら。


 また俺が守ろうとして、守れなかったら。


 今度こそ、取り返しのつかないことになるんじゃないか。


 そんな恐怖が、ずっと胸の奥に残っている。


 だから——。


 守るためには、距離を置くしかない。


「愛梨……ありがと……でも……」


 声が震える。


 必死に抑えようとしているのに、うまくいかない。


 目の前の愛梨の瞳が、ゆらゆらと揺れている。


 その瞳を見るだけで、胸の奥が痛くなる。


 本当は、抱きしめたい。


 本当は、好きだと伝えたい。


 今までずっと好きだったと。


 これからも、そばにいたいと。


 何度だって言える。


 でも——言えない。


 俺が本音を伝えれば、きっとまた愛梨を傷つける。


 そう思ってしまう。


 だから、自分の気持ちを飲み込むしかなかった。


「……付き合えない」


 口にした瞬間。


 その言葉が、まるで刃物のように、自分自身の胸にも突き刺さった。


 痛い。


 苦しい。


 今すぐ取り消したい。


 そんなことを言いたかったんじゃない。


 違う。


 本当は——。


 好きだ。


 大好きだ。


 誰よりも、大切だ。


 ずっと前から、愛梨だけを見ていた。


 それなのに。


 俺の口から出たのは、彼女を拒絶する言葉だった。


 視線を落とす。


 愛梨の顔を見ることができない。


 きっと今、彼女は傷ついている。


 そのことを考えるだけで、胸が潰れそうになる。


 それでも、言わなければならない。


「俺じゃ……ダメ、なんだ」


 それは愛梨に向けた言葉であり、同時に、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。


 俺じゃ、愛梨を幸せにできない。


 俺じゃ、また守れないかもしれない。


 だから、これでいい。


 これで——いいんだ。


 そう思おうとするたびに、胸の奥から別の声がする。


 ——嘘だ。


 離れたくない。


 そばにいたい。


 愛梨の隣にいるのは、俺がいい。


 その想いを押し殺すように、拳を握りしめる。


 逃げているだけだ。


 臆病なだけだ。


 そんなことは、自分が一番よく分かっている。


 それでも、怖かった。


 もう一度、愛梨を傷つけることが。


 もう一度、大切なものを失うことが。


 だから俺は、自分の気持ちを捨てることを選んだ。


 ——大好きだから。


 触れられない。


 そばにいたいからこそ、離れなければならない。


 そんな矛盾が、こんなにも苦しいなんて知らなかった。


 雪の舞う夜空を見上げる。


 街灯の光が白い世界に反射して、愛梨の髪を淡く照らしていた。


 指先は冷たいのに、心だけが熱い。


 痛いほど、熱い。


 このまま、彼女のそばにいたい。


 名前を呼びたい。


 もう一度、手を繋ぎたい。


 でも——。


 俺は、ゆっくりと一歩、後ろへ下がった。


 愛梨との距離が、ほんの少しだけ開く。


 それだけなのに、胸が引き裂かれるようだった。


 雪が静かに降り積もっていく。


 さっきまで二人で歩いていた道には、並んだ足跡が残っている。


 けれど、その先で。


 二人分の足跡は、少しずつ離れていく。


 まるで、これからの俺たちを示しているみたいだった。


 ——ごめん。


 心の中で、何度も繰り返す。


 好きだ。


 大好きだ。


 誰よりも、愛梨の幸せを願っている。


 だからこそ、俺は離れる。


 この想いを、胸の奥に閉じ込めたまま。


 白く染まる夜の中を、一人で歩いていく。


 振り返れば、きっと戻ってしまうから。


 愛梨の姿を見れば、全部を伝えてしまいそうだから。


 俺は、振り返らなかった。


 ただ、胸の奥で何度も繰り返す。


 ——大好きだ。


 ——でも、届けられなくてごめん。