記憶の欠片

 体育大会も、終わりが近づいていた。


 少しずつ人が減っていく会場の中で、私は約束していた月城くんを探していた。


 すると、アリーナの端にある大きな窓の近くに、彼の姿を見つけた。


「……慧」


 思わず、口に出してから気づく。


 今、私は——。


「……月城くん」


 言い直した、その瞬間。


「黒瀬」


 彼が振り返った。


「写真、撮る?」


「……うん」


 月城くんはスマートフォンを取り出した。


 隣に並ぶ。


 肩が触れそうで触れないくらいの距離。


 カメラを構えながら、彼が小さく息を吐いた。


「……撮るよ」


「待って」


「ん?」


 私は少しだけ俯いた。


 言おうか迷う。


 でも——。


「……あの」


「うん」


「月城くん、じゃなくて……」


 言葉が喉につかえる。


 心臓が、どくんと鳴った。


「……慧って、呼んでもいい?」


 静かになった。


 さっきまで聞こえていた体育館のざわめきさえ、遠くなった気がした。


 彼は、驚いたように私を見る。


 何かを言おうとして、でも言葉が出てこない。


 その表情を見ていると、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


「……嫌、だったらいいんだけど」


 慌てて付け足す。


「なんとなく……昔は、そう呼んでた気がして」


 彼の瞳が、わずかに揺れた。


「……覚えてるの?」


「全部じゃないけどね」


 私は小さく笑った。


「でも、少しずつ思い出してる」


 彼はしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと目を伏せる。


「……好きに呼んで」


「ほんと?」


「うん」


 短い返事。


 だけど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。


「じゃあ……」


 私は、もう一度その名前を口にする。


「……慧」


「……何?」


「ううん。呼んでみただけ」


 そう言うと、慧は一瞬だけ目を丸くして——


 小さく笑った。


「……変なの」


「だって、嬉しくて」


 その言葉に、慧の笑顔が止まる。


 そして、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「……早く撮ろ」


「ふふっ、うん」


 慧がスマートフォンを構える。


「じゃあ、笑って」


「慧もね」


「……分かったよ」


 二人でカメラを見る。


 シャッター音が響いた。


 ——その一枚には。


 忘れていた時間と、今の私たちが、一緒に写っていた。


シャッター音が響いた。


 画面の中には、並んで笑う私たちが写っている。


「……見せて」


「ん」


 慧がスマートフォンを差し出してくれる。


 画面を覗き込むと、そこには少し照れた私と、いつもより柔らかく笑っている慧がいた。


「……なんか、変な感じ」


「何が?」


「こうして二人で写真撮るの」


「……そう?」


「うん」


 私は写真を見つめたまま、小さく笑う。


「でも……嬉しい」


 その言葉に、慧が黙った。


 しばらくして。


「……愛梨」


「……え」


 顔を上げる。


 耳を赤くそめて目を逸らす慧を覗き込んだ。


 目が合う。


 その瞬間だけ。


 時間が、少しだけ昔に戻った気がした。


「……今」


「……」


「愛梨って、呼んだ?」


 聞くと、慧はまた目を逸らした。


「……呼んだ」


「……」


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 ずっと聞きたかった名前。


 昔は当たり前だったのに。


 今は、たった一言がこんなにも嬉しい。


「……もう一回、呼んで」


 自分でも驚くほど素直な言葉が、口からこぼれた。


「……」


 慧が私を見る。


 困ったように眉を下げて、それから小さく息を吐いた。


「……愛梨」


 今度は、ちゃんと。


 まっすぐ私の名前を呼んでくれた。


「……うん」


 それだけしか言えなかった。


 でも、不思議だった。


 胸の奥に空いていた小さな穴が、少しだけ埋まったような気がした。


「……そろそろ戻ろ」


 慧が先に歩き出す。


「うん」


 私はその背中を追いかける。


 数歩進んだところで、慧が振り返った。


「愛梨」


「なに?」


「……置いてくよ」


「待って」


 思わず笑って、駆け足で隣に並ぶ。


 その距離は、まだ少しだけ遠い。


 それでも。


 さっきまでより、ほんの少しだけ近かった。