記憶の欠片

 ——そして。


 次の競技が始まった。


「次、一年生の借り物競争だって、トラックまで移動しよ」


「借り物かぁ」


 日菜と雑談しながらトラックで、組ごとに並んで座る。


 私はプログラムを眺めながら、何となくトラックへ目を向けた。


 スタートラインには、何人かの生徒が並んでいる。


 その中に——


「……え?」


 見慣れた黒髪。


「月城くん……?」


 思わず名前を呟いた。


 ピストルの音が響く。


 選手たちが一斉に走り出す。


 少し先に置かれた紙を拾い上げ、それぞれが内容を確認していく。


「何のお題なんだろうね」


 日菜が興味津々に眺めている。


「分からない……」


 その時だった。


 月城くんが、立ち止まった。


 手にした紙を見つめている。


 そして──ゆっくりと顔を上げた。


 その視線が、まっすぐこちらへ向く。


「……え?」


 心臓が跳ねた。


 彼は、一瞬だけ迷ったように視線を逸らした。


 けれど。


 次の瞬間には、こちらへ向かって走ってきていた。


「…黒瀬」


「……え?」


 目の前で足を止めた月城くんが、息を整える。


 その顔には、いつもの不器用な無愛想さが少しだけ浮かんでいた。


「来て」


 そう言って、彼は手にした紙を見せる。


 そこに書かれていたのは——


『自分にとって大切な人』


 息が止まった。


「……私?」


「うん」


「どうして……」


 思わず聞いてしまう。


 月城くんは答えようとして、ほんの少しだけ黙った。


「……他に、思いつかなかったから」


 それだけ。


 それだけなのに。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


「……行こ」


 差し出された手。


 私は戸惑いながら、その手を取った。


 歓声が一気に大きくなる。


「えっ、月城くん愛梨連れてった!?」


「お題なに!?」


 そんな声が聞こえてくる。


 恥ずかしくなって俯く私の隣で、慧は何も言わない。


 ただ。

 
 繋いだ手だけは、ゴールまで離れなかった。


 ——どうしてだろう。


 あんなに人がたくさんいる場所なのに。


 今は、彼の隣しか見えなかった。



 ゴールラインを越えた瞬間、審判の声が響いた。


「ゴール!」


 その声と同時に、慧くんの手が離れる。


 さっきまで繋がっていた手が、急に空っぽになった。


 ……なんだろう。


 ほんの数秒だったはずなのに。


 手のひらに残った温度が、妙に気になった。


「月城くん、お題なんだったのー!?」


 後ろから、クラスメイトの声が飛んでくる。


「誰連れてきたの!?」


「星宮じゃん!」


 一気に周りが騒がしくなる。


「……」


 慧くんは少し困ったように眉を寄せた。


 そして、手に持っていた紙を見せる。


「『自分にとって大切な人』だって」


「えええ!?」


 歓声が上がった。


「それで星宮!?」


「月城、お前そゆことか!」


「違っ……!」


 思わず声が出る。


 顔が熱くなる。


「そういう意味じゃ……!」


 けれど、周りは面白がって笑っている。


 隣を見ると、月城くんは何も言わず、少しだけ目を伏せていた。


「……行こう」


 小さな声。


「次の競技、始まるから」


「あ……うん」


 そう言って、月城くんは先に歩き出した。


 その背中を見つめる。


 さっきまで、手を繋いでいたのに。


 今は、少しだけ遠い。


「愛梨?」


 日菜が、隣にやってくる。


「……顔、赤いよ?」


「えっ」


「ふふっ」


「笑わないでよ……!」


「だってさぁ」


 日菜がニヤニヤしながら月城くんの背中を見る。


「『大切な人』って言われて、愛梨を連れてくんだもん」


「……っ」


 また顔が熱くなる。


「でも……」


 私は小さく呟いた。


「……どうして私だったんだろう」


 日菜は一瞬だけ黙った。


「それは……本人に聞いてみれば?」


「無理だよ」


「なんで?」


「だって……」


 聞いてしまったら。


 もし、私が期待しているような答えじゃなかったら。


 怖い。


 そう思ってしまった、その時。


「星宮」


 遠くから名前を呼ばれた。


 振り向くと、月城くんがこちらを見ていた。


「体育大会の記念に」


 そう言って、少しだけ視線を逸らす。


「あとで……撮る?」


「あ……うん!」


 嬉しくなって、思わず笑った。


「撮りたい」


 月城くんは、ほんの少しだけ目を細めた。


「……分かった」


 それだけ言って、また歩いていく。


 私は、その背中を見送った。


 ——やっぱり。


 分からない。


 優しいのに、遠い。


 近づいたと思ったら、すぐに離れていく。


 まるで、私に近づいてはいけない理由があるみたいに。


 でも、さっき私を選んでくれたことだけは。


 どうしても、嬉しかった。


 それからしばらくして。


 体育大会も、いよいよ終盤に差しかかっていた。


「次、最終競技です!」


 会場にアナウンスが響く。


 各組の選手が集まり、応援席から大きな歓声が上がる。


 私は日菜と並んで、自分たちの組を応援した。


 湊音くんも、少し離れたところで声を上げている。


「白組、頑張れー!」


「いけー!!」


 声を張り上げる。


 その瞬間。


 ふと、視線を感じた。


 顔を上げると、少し離れた場所に月城くんがいた。


 目が合う。


 ほんの一瞬。


 けれど月城くんは、すぐに視線を逸らした。


 ……まただ。


 胸の奥が、少しだけ痛くなる。


 記憶を思い出してから。


 昔の私が、どんな気持ちで月城くんを見ていたのか。


 少しずつ、分かってきている気がした。


 体育大会の歓声が、会場いっぱいに響く。


 その喧騒の中で。


 私はもう一度だけ、彼の背中を見つめた。


 ——もっと、近くにいたい。


 そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいった。