記憶の欠片

 長かった入学式も終わり、生徒たちはそれぞれの教室へ向かって歩き始める。


 私はまだ眠気が抜けきらず、ふわふわとした足取りで廊下を歩いていた。


 ……眠い。


 その瞬間。


 「きゃっ。」


 ぼんやりしていた私は、前を歩いていた女の子の背中に軽くぶつかってしまった。


 「あっ、ご、ごめん!」


 慌てて頭を下げる。


 女の子は振り返ると、目を大きく見開いた。


 「……え?」


 驚いたような、信じられないものを見たような表情。


 私は一瞬、その反応に首を傾げる。


 ……私、何か変なことしたかな?


 「本当にごめんね。ちょっと眠くてぼーっとしちゃって。」


 そう言って笑うと、彼女はハッと我に返ったように、小さく笑みを浮かべた。


 「う、ううん。大丈夫。」


 少しだけぎこちない笑顔だった。


 「眠いよねー。校長先生の話、長かったもん。」


 私が苦笑すると、


 「……ふふっ、そうだね。」


 さっきより少しだけ自然な笑顔が返ってくる。


 二人で並んで歩き始める。


 静かな廊下に、上履きの音だけが響いていた。


 数歩進んだところで、彼女が小さく口を開く。


 「あの、愛梨──」


 その瞬間。


 「急げ急げー!」


 「先生来るぞ!」


 他クラスの男子生徒たちが廊下を駆け抜け、大きな笑い声が二人の間を通り過ぎていく。


 彼女の声は、その騒がしさにかき消されてしまった。


 「……え? 何か言った?」


 「……ううん。」


 彼女は首を横に振り、小さく笑った。


 私は改めて彼女の方へ向き直る。


 「そういえば、自己紹介まだだったね。」


 私は軽く頭を下げた。


 「黒瀬愛梨です。よろしくね。」


 その言葉を聞いた彼女の表情が、一瞬だけ固まる。


 喉が小さく上下した。


 何かを飲み込むように、静かに息を整えてから。


 「……私、明日香っていうの。」


 少しだけ震えた声で、それでも優しく微笑む。


 「これから、よろしくね。愛梨。」


 その笑顔の裏に隠された想いを。


 まだ私は、何も知らなかった。