日菜side
紅葉が色づきはじめて、校庭が少しずつ鮮やかさを増していく頃だった。
中学二年の秋。
隣の席になったのが、愛梨だった。
小学校が同じだったこともあって、話しかけるのに時間はかからなかった。
笑うと目が細くなって、柔らかな声で、でもちゃんと相手の話を聞いてくれる子。
私はすぐに、彼女の隣が好きになった。
……だけど、すぐに気づいてしまった。
愛梨は、虐められていた。
理由は、驚くほど簡単で、理不尽だった。
クラスのリーダー格の女の子の機嫌を損ねた。
ただ、それだけ。
何かしたわけじゃない。
悪口を言ったわけでも、邪魔をしたわけでもない。
「あいつ、なんか気に食わない」
そんな一言で、空気は一気に変わった。
取り巻きの女子たちは、あからさまに態度を変える。
無視、陰口、物を隠す、視線で笑う。
誰もが分かっていた。
でも、誰も止めなかった。
——次は、自分かもしれないから。
怖かったんだと思う。
私も、きっと例外じゃなかった。
それでも私は、彼女たちと深く絡んでいなかったから。
だからこそ、できた選択だったのかもしれない。
気づかないふりをして、いつも通り、愛梨と話した。
「今日の授業さ、長くなかった?」
「この問題、ちょっと難しくない?」
そんな、どうでもいい会話。
でも、それが彼女を“ひとりにしない”ための、私なりの精一杯だった。
本当は、分かってた。
それが、逃げだってこと。
真正面から守ってあげられていないってこと。
愛梨は、何も言わなかった。
つらいとも、苦しいとも。
ただ、少しずつ、笑う回数が減っていった。
愛梨を、このクラスの状況を何とかしないと。
そう思っていた。
だけど、ある日から。
私は、彼女を避け始めた。
きっかけは、本当に些細なことの積み重ねだった。
消しゴムがなくなった日。
ノートが見当たらなかった日。
ペンケースの中身が減っていた日。
そのたびに、クラスの誰かが拾ってきてくれる。
そして、決まって同じ言葉を添えて。
「星宮さんが、盗ってるの見たよ」
最初は、即座に否定できた。
そんなの、絶対に嘘だって。
愛梨は、そんなことをする子じゃないって知ってる。
……知ってた、はずだった。
でも、同じ話を何人もの口から聞かされるうちに、心のどこかに小さなヒビが入った。
「やめた方がいいよ」
「一旦、距離置こう?」
「巻き込まれるよ」
善意みたいな顔をした忠告が、じわじわと私を追い詰めていく。
——もし、本当だったら?
そんな考えが、頭をよぎってしまった瞬間、私は自分が怖くなった。
信じたいのに。
信じてあげたいのに。
でも、私には勇気がなかった。
だから私は、少しずつ、距離を取った。
隣の席でも、話しかける回数を減らして。
目が合っても、笑うだけで。
それでも、みんなみたいに陰口を叩くことはしなかった。
あんなふうに、彼女を貶める言葉を、口に出せなかった。
だって私は、知っている。
彼女が、どれだけ優しいか。
誰かの痛みに、どれだけ敏感か。
……もし、本当に盗んだのが愛梨だったとしても。
私は、憎めない。
どうしてそんなことをしなきゃいけなかったのか、きっと理由があるって、思ってしまう。
だからこそ、余計に苦しかった。
信じきれない自分と、突き放すこともできない自分。
結果として私は、一番残酷な選択をしてしまった。
——そばにいながら、守らない。
それが、あの日へと続く道だったなんて、この時の私はまだ分かっていなかった。
ある日の放課後。
廊下の窓から差し込む夕日が、床をオレンジ色に染めていた。
名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは慧だった。
小学生の頃から、当たり前みたいに一緒にいた幼なじみ。
でも最近は、話すのも久しぶりだった気がする。
慧は少し眉を寄せて、真剣な顔をしていた。
「……愛梨がいじめられてるの、知ってるだろ」
胸が、きゅっと縮む。
否定できなかった。
視線を逸らすと、彼は続ける。
「俺、クラス違うからさ。正直、ずっとそばにいてやれない」
一瞬、言葉を探すみたいに間を置いてから、慧は私をまっすぐ見た。
「今、愛梨のそばにいてあげられるのは、日菜だけなんだ」
——日菜だけ。
その一言が、胸に突き刺さった。
「だから、頼む」
低く、でも必死な声。
「愛梨を支えてやって。愛梨が……壊れないように」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
私、何してるんだろう。
噂を信じて、距離を取って、“見て見ぬふり”をして。
守れる立場にいながら、何もしなかった。
慧は、全部分かってる。
愛梨がどれだけ追い詰められてるか。
それでも、私を責める言葉は一つもなかった。
——託されたんだ。
愛梨のことを。
彼女の心を。
喉が詰まって、すぐに返事はできなかった。
でも、強く頷いた。
「……うん。分かった」
声が、少し震えた。
「私が、そばにいる。今度こそ……逃げない」
慧は、ほっとしたように小さく息を吐いて、「ありがとう」とだけ言った。
その背中を見送りながら、私は自分の胸に問いかける。
——もう一度、彼女の隣に立てるだろうか。
その時の私はまだ知らなかった。
この約束を守れなかったことを、これから先、何度も何度も悔やむことになるなんて。
慧と別れて、廊下を歩き出した直後だった。
笑い声が、ひそひそとした声に混じって耳に入る。
「ねぇ、さすがにヤバいって。バレたらどうすんの?」
「……大丈夫だって。あいつ、誰にも相談してないっぽいし」
「……私のこと、売らないでね」
心臓が、嫌な音を立てた。
——愛梨?
足が止まる。
振り返ると、クラスの女子たちが固まって立っていた。
その中の一人の視線が、わずかに揺れる。
「……愛梨?」
声が、思ったより低く出た。
「今の、どういうこと」
一瞬の沈黙。
それから、軽く笑って誤魔化すような声。
「え、あーあいつさ、私たちのこと殴ろうとしてきたから。ちょっと……ね?」
——嘘だ。
胸の奥で、はっきりと分かった。
愛梨が、そんなことするはずがない。
「……どこ」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
「愛梨は、どこにいるの」
「ちょ、日菜。あんなやつのことなん——」
「どこかって聞いてるの!!」
声を張り上げた瞬間、空気が一気に冷えた。
「あーあ、せっかく上手に騙せてると思ってたのに。最っ悪……」
吐き捨てるような声。
その次の瞬間には、もう答えは出ていた。
——音楽室。
その言葉を聞いた途端、私は走り出していた。
考える暇なんてなかった。
ただ、嫌な予感だけが背中を押す。
「今更態度変えるの? ただの自己満じゃん!」
背後から投げつけられる言葉。
棘みたいに刺さるはずなのに、不思議と足は止まらなかった。
自己満でもいい。
偽善でもいい。
今は、愛梨のところに行かなきゃ。
廊下を駆け抜けるたび、床が大きく軋む。
息が荒くなって、肺が痛い。
窓の外では、秋の空がやけに静かで、雲がゆっくり流れていた。
——間に合って。
——お願いだから、まだ……。
音楽室が近づくにつれて、胸の奥が締めつけられる。
不安が、はっきりと形を持ち始める。
あの日、避けてしまったこと。
声をかけなかったこと。
信じきれなかった自分。
全部が、今になって重くのしかかる。
「……待ってて」
誰に向けた言葉かも分からないまま呟く。
音楽室の前で、私は思わず足を止めた。
中に、誰かいる。
ひとり、いや……ふたり?
「愛梨、愛梨っ!」
慧の声が、廊下にまで響いていた。
その切羽詰まった呼び声に、心臓が跳ねる。
——間に合わなかった?
何かが倒れるような、鈍い音。
私は反射的にドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開けた。
音楽室の中は、ひどく散乱していた。
椅子は乱暴に引きずられたように倒れ、譜面台は床に伏せ、楽譜が雪みたいに散らばっている。
さっきまで静かだったはずの空間は、まるで嵐が通り過ぎた後みたいだった。
空気が重く、埃っぽくて、胸の奥がひりつく。
その中心で——
「……日菜」
弱々しく、でも確かに私の名前を呼ぶ声。
慧が、愛梨を大切そうに抱えていた。
彼女の身体を支えるその腕は震えていて、表情は必死に感情を押し殺しているようだった。
「……っごめん、慧、私っ」
言葉が、喉で絡まる。
全部、私のせいだ。
避けたことも、信じきれなかったことも。
でも、慧は首を振った。
「謝るべき相手は、俺じゃない」
その声は静かで、でもはっきりしていた。
責めるよりも、現実を突きつけるような声音。
「……先生、呼んできてくれ」
「分かった」
それだけ答えて、私は踵を返した。
足が震えて、うまく前に進まない。
それでも、走らなきゃいけなかった。
——逃げないって、決めたから。
職員室で先生を見つけ、必死に事情を伝えた。
言葉は途切れ途切れだったけれど、私の知っていることを、全部話した。
いじめのこと。
嘘の噂のこと。
音楽室に向かった理由。
話しながら、胸の奥がじわじわと痛くなる。
今まで、黙っていたこと。
見て見ぬふりをしたこと。
それら全部が、今日につながってしまった気がして。
先生の表情が変わっていくのを見ながら、私は強く思った。
もう、愛梨を一人にしない。
ちゃんと謝って、ちゃんと向き合う。
あの日、私はそう誓った。
それから数日が経って、いじめの件は表向きには収束した。
関わった生徒の処分も決まり、先生たちの対応も一段落した。
でも——
愛梨は、学校に来なかった。
一日、また一日。
気づけば一週間が過ぎていた。
胸の奥に、じわじわと広がる嫌な予感。
私は耐えきれなくなって、担任の先生のもとへ向かった。
「先生……黒瀬さん、今どうなってますか」
先生は一瞬、言葉を探すように視線を伏せた。
その沈黙だけで、もう答えは分かってしまいそうだった。
「……まだ、意識が戻っていないんだ」
「え……?」
「昏睡状態が続いている」
その言葉が、頭の中でうまく意味を結ばない。
昏睡?
意識が、戻らない?
世界の音が、急に遠のいた気がした。
「首を……強く打ってしまったらしくてね」
先生は、少し言葉を探すようにして言った。
混乱している私には、気づくことが出来なかった。
まるで、真実から私を背けるような言葉を並べていたことに。
首には大切な神経が集まっている、と続ける言葉が、刃みたいに胸に刺さる。
——そんなところを、あの時。
ぐっと奥歯を噛みしめる。
もし、私がもっと早く気づいていれば。
もし、あの日、迷わずそばにいれば。
「……私の、せいだ」
喉から零れた声は、かすれていた。
教室へ戻る廊下は、やけに長く感じた。
窓の外では、紅葉が静かに揺れている。
あんなに綺麗なのに、今の私には何の色もない。
愛梨、私、ちゃんと向き合うって決めたのに。
謝るって、守るって、誓ったのに。
——まだ、何も伝えられていない。
もしこのまま、目を覚まさなかったら?
その考えが浮かんだ瞬間、胸がぎゅっと潰れそうになる。
「……お願い」
誰に向けた言葉なのかも分からないまま、私は小さく呟いた。
「目、覚ましてよ……」
次に会う時は、必ず、ちゃんと謝るから。
今度こそ、逃げないから。
だから——
どうか、生きていて。
「……愛梨、あの日からずっと学校に来なくて……」
声が震えて、途中で言葉が途切れた。
喉の奥がきゅっと締め付けられて、息がうまくできない。
「私……ずっと後悔してたの」
視界が滲む。
ベッドの白いシーツに、ぽたっと涙が落ちた。
「本当に、ごめんなさい……」
あの時、信じきれなかったこと。
怖くて、一歩踏み出すのが遅れたこと。
助けを求めていたサインに、気づいていながら目を逸らしたこと。
全部、全部。
私は顔を伏せたまま、嗚咽を噛み殺していた。
すると、かすかに布が擦れる音がして、次の瞬間、あたたかい感触が私の肩に触れた。
「……日菜」
弱々しい、でも確かに愛梨の声。
「私ね……ずっと一人だって思ってた」
胸が、ぎゅっと掴まれる。
「でも、今こうして日菜が泣いてくれてるの見て……私、ちゃんと大切にされてたんだって、分かった」
「愛梨……っ」
私は耐えきれず、彼女の身体に縋りついた。
細くて、あの日よりずっと軽くなった気がして、また涙が溢れる。
「私、嫌われたって、信じられなくなって……逃げてた」
「でも……もう逃げない」
愛梨の腕が、ぎこちなく私の背中に回る。
力は弱いのに、その温もりが、何よりも確かだった。
「日菜」
「私たち、ちゃんと話そう。これからは……一緒に」
「……うん」
保健室には、静かな午後の光が差し込んでいる。
カーテンが揺れて、消毒薬の匂いがふわりと漂う。
私たちは言葉を失ったまま、しばらく泣き続けた。
取り戻せなかった時間の分まで。
すれ違ってしまった気持ちの分まで。
紅葉が色づきはじめて、校庭が少しずつ鮮やかさを増していく頃だった。
中学二年の秋。
隣の席になったのが、愛梨だった。
小学校が同じだったこともあって、話しかけるのに時間はかからなかった。
笑うと目が細くなって、柔らかな声で、でもちゃんと相手の話を聞いてくれる子。
私はすぐに、彼女の隣が好きになった。
……だけど、すぐに気づいてしまった。
愛梨は、虐められていた。
理由は、驚くほど簡単で、理不尽だった。
クラスのリーダー格の女の子の機嫌を損ねた。
ただ、それだけ。
何かしたわけじゃない。
悪口を言ったわけでも、邪魔をしたわけでもない。
「あいつ、なんか気に食わない」
そんな一言で、空気は一気に変わった。
取り巻きの女子たちは、あからさまに態度を変える。
無視、陰口、物を隠す、視線で笑う。
誰もが分かっていた。
でも、誰も止めなかった。
——次は、自分かもしれないから。
怖かったんだと思う。
私も、きっと例外じゃなかった。
それでも私は、彼女たちと深く絡んでいなかったから。
だからこそ、できた選択だったのかもしれない。
気づかないふりをして、いつも通り、愛梨と話した。
「今日の授業さ、長くなかった?」
「この問題、ちょっと難しくない?」
そんな、どうでもいい会話。
でも、それが彼女を“ひとりにしない”ための、私なりの精一杯だった。
本当は、分かってた。
それが、逃げだってこと。
真正面から守ってあげられていないってこと。
愛梨は、何も言わなかった。
つらいとも、苦しいとも。
ただ、少しずつ、笑う回数が減っていった。
愛梨を、このクラスの状況を何とかしないと。
そう思っていた。
だけど、ある日から。
私は、彼女を避け始めた。
きっかけは、本当に些細なことの積み重ねだった。
消しゴムがなくなった日。
ノートが見当たらなかった日。
ペンケースの中身が減っていた日。
そのたびに、クラスの誰かが拾ってきてくれる。
そして、決まって同じ言葉を添えて。
「星宮さんが、盗ってるの見たよ」
最初は、即座に否定できた。
そんなの、絶対に嘘だって。
愛梨は、そんなことをする子じゃないって知ってる。
……知ってた、はずだった。
でも、同じ話を何人もの口から聞かされるうちに、心のどこかに小さなヒビが入った。
「やめた方がいいよ」
「一旦、距離置こう?」
「巻き込まれるよ」
善意みたいな顔をした忠告が、じわじわと私を追い詰めていく。
——もし、本当だったら?
そんな考えが、頭をよぎってしまった瞬間、私は自分が怖くなった。
信じたいのに。
信じてあげたいのに。
でも、私には勇気がなかった。
だから私は、少しずつ、距離を取った。
隣の席でも、話しかける回数を減らして。
目が合っても、笑うだけで。
それでも、みんなみたいに陰口を叩くことはしなかった。
あんなふうに、彼女を貶める言葉を、口に出せなかった。
だって私は、知っている。
彼女が、どれだけ優しいか。
誰かの痛みに、どれだけ敏感か。
……もし、本当に盗んだのが愛梨だったとしても。
私は、憎めない。
どうしてそんなことをしなきゃいけなかったのか、きっと理由があるって、思ってしまう。
だからこそ、余計に苦しかった。
信じきれない自分と、突き放すこともできない自分。
結果として私は、一番残酷な選択をしてしまった。
——そばにいながら、守らない。
それが、あの日へと続く道だったなんて、この時の私はまだ分かっていなかった。
ある日の放課後。
廊下の窓から差し込む夕日が、床をオレンジ色に染めていた。
名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは慧だった。
小学生の頃から、当たり前みたいに一緒にいた幼なじみ。
でも最近は、話すのも久しぶりだった気がする。
慧は少し眉を寄せて、真剣な顔をしていた。
「……愛梨がいじめられてるの、知ってるだろ」
胸が、きゅっと縮む。
否定できなかった。
視線を逸らすと、彼は続ける。
「俺、クラス違うからさ。正直、ずっとそばにいてやれない」
一瞬、言葉を探すみたいに間を置いてから、慧は私をまっすぐ見た。
「今、愛梨のそばにいてあげられるのは、日菜だけなんだ」
——日菜だけ。
その一言が、胸に突き刺さった。
「だから、頼む」
低く、でも必死な声。
「愛梨を支えてやって。愛梨が……壊れないように」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
私、何してるんだろう。
噂を信じて、距離を取って、“見て見ぬふり”をして。
守れる立場にいながら、何もしなかった。
慧は、全部分かってる。
愛梨がどれだけ追い詰められてるか。
それでも、私を責める言葉は一つもなかった。
——託されたんだ。
愛梨のことを。
彼女の心を。
喉が詰まって、すぐに返事はできなかった。
でも、強く頷いた。
「……うん。分かった」
声が、少し震えた。
「私が、そばにいる。今度こそ……逃げない」
慧は、ほっとしたように小さく息を吐いて、「ありがとう」とだけ言った。
その背中を見送りながら、私は自分の胸に問いかける。
——もう一度、彼女の隣に立てるだろうか。
その時の私はまだ知らなかった。
この約束を守れなかったことを、これから先、何度も何度も悔やむことになるなんて。
慧と別れて、廊下を歩き出した直後だった。
笑い声が、ひそひそとした声に混じって耳に入る。
「ねぇ、さすがにヤバいって。バレたらどうすんの?」
「……大丈夫だって。あいつ、誰にも相談してないっぽいし」
「……私のこと、売らないでね」
心臓が、嫌な音を立てた。
——愛梨?
足が止まる。
振り返ると、クラスの女子たちが固まって立っていた。
その中の一人の視線が、わずかに揺れる。
「……愛梨?」
声が、思ったより低く出た。
「今の、どういうこと」
一瞬の沈黙。
それから、軽く笑って誤魔化すような声。
「え、あーあいつさ、私たちのこと殴ろうとしてきたから。ちょっと……ね?」
——嘘だ。
胸の奥で、はっきりと分かった。
愛梨が、そんなことするはずがない。
「……どこ」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
「愛梨は、どこにいるの」
「ちょ、日菜。あんなやつのことなん——」
「どこかって聞いてるの!!」
声を張り上げた瞬間、空気が一気に冷えた。
「あーあ、せっかく上手に騙せてると思ってたのに。最っ悪……」
吐き捨てるような声。
その次の瞬間には、もう答えは出ていた。
——音楽室。
その言葉を聞いた途端、私は走り出していた。
考える暇なんてなかった。
ただ、嫌な予感だけが背中を押す。
「今更態度変えるの? ただの自己満じゃん!」
背後から投げつけられる言葉。
棘みたいに刺さるはずなのに、不思議と足は止まらなかった。
自己満でもいい。
偽善でもいい。
今は、愛梨のところに行かなきゃ。
廊下を駆け抜けるたび、床が大きく軋む。
息が荒くなって、肺が痛い。
窓の外では、秋の空がやけに静かで、雲がゆっくり流れていた。
——間に合って。
——お願いだから、まだ……。
音楽室が近づくにつれて、胸の奥が締めつけられる。
不安が、はっきりと形を持ち始める。
あの日、避けてしまったこと。
声をかけなかったこと。
信じきれなかった自分。
全部が、今になって重くのしかかる。
「……待ってて」
誰に向けた言葉かも分からないまま呟く。
音楽室の前で、私は思わず足を止めた。
中に、誰かいる。
ひとり、いや……ふたり?
「愛梨、愛梨っ!」
慧の声が、廊下にまで響いていた。
その切羽詰まった呼び声に、心臓が跳ねる。
——間に合わなかった?
何かが倒れるような、鈍い音。
私は反射的にドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開けた。
音楽室の中は、ひどく散乱していた。
椅子は乱暴に引きずられたように倒れ、譜面台は床に伏せ、楽譜が雪みたいに散らばっている。
さっきまで静かだったはずの空間は、まるで嵐が通り過ぎた後みたいだった。
空気が重く、埃っぽくて、胸の奥がひりつく。
その中心で——
「……日菜」
弱々しく、でも確かに私の名前を呼ぶ声。
慧が、愛梨を大切そうに抱えていた。
彼女の身体を支えるその腕は震えていて、表情は必死に感情を押し殺しているようだった。
「……っごめん、慧、私っ」
言葉が、喉で絡まる。
全部、私のせいだ。
避けたことも、信じきれなかったことも。
でも、慧は首を振った。
「謝るべき相手は、俺じゃない」
その声は静かで、でもはっきりしていた。
責めるよりも、現実を突きつけるような声音。
「……先生、呼んできてくれ」
「分かった」
それだけ答えて、私は踵を返した。
足が震えて、うまく前に進まない。
それでも、走らなきゃいけなかった。
——逃げないって、決めたから。
職員室で先生を見つけ、必死に事情を伝えた。
言葉は途切れ途切れだったけれど、私の知っていることを、全部話した。
いじめのこと。
嘘の噂のこと。
音楽室に向かった理由。
話しながら、胸の奥がじわじわと痛くなる。
今まで、黙っていたこと。
見て見ぬふりをしたこと。
それら全部が、今日につながってしまった気がして。
先生の表情が変わっていくのを見ながら、私は強く思った。
もう、愛梨を一人にしない。
ちゃんと謝って、ちゃんと向き合う。
あの日、私はそう誓った。
それから数日が経って、いじめの件は表向きには収束した。
関わった生徒の処分も決まり、先生たちの対応も一段落した。
でも——
愛梨は、学校に来なかった。
一日、また一日。
気づけば一週間が過ぎていた。
胸の奥に、じわじわと広がる嫌な予感。
私は耐えきれなくなって、担任の先生のもとへ向かった。
「先生……黒瀬さん、今どうなってますか」
先生は一瞬、言葉を探すように視線を伏せた。
その沈黙だけで、もう答えは分かってしまいそうだった。
「……まだ、意識が戻っていないんだ」
「え……?」
「昏睡状態が続いている」
その言葉が、頭の中でうまく意味を結ばない。
昏睡?
意識が、戻らない?
世界の音が、急に遠のいた気がした。
「首を……強く打ってしまったらしくてね」
先生は、少し言葉を探すようにして言った。
混乱している私には、気づくことが出来なかった。
まるで、真実から私を背けるような言葉を並べていたことに。
首には大切な神経が集まっている、と続ける言葉が、刃みたいに胸に刺さる。
——そんなところを、あの時。
ぐっと奥歯を噛みしめる。
もし、私がもっと早く気づいていれば。
もし、あの日、迷わずそばにいれば。
「……私の、せいだ」
喉から零れた声は、かすれていた。
教室へ戻る廊下は、やけに長く感じた。
窓の外では、紅葉が静かに揺れている。
あんなに綺麗なのに、今の私には何の色もない。
愛梨、私、ちゃんと向き合うって決めたのに。
謝るって、守るって、誓ったのに。
——まだ、何も伝えられていない。
もしこのまま、目を覚まさなかったら?
その考えが浮かんだ瞬間、胸がぎゅっと潰れそうになる。
「……お願い」
誰に向けた言葉なのかも分からないまま、私は小さく呟いた。
「目、覚ましてよ……」
次に会う時は、必ず、ちゃんと謝るから。
今度こそ、逃げないから。
だから——
どうか、生きていて。
「……愛梨、あの日からずっと学校に来なくて……」
声が震えて、途中で言葉が途切れた。
喉の奥がきゅっと締め付けられて、息がうまくできない。
「私……ずっと後悔してたの」
視界が滲む。
ベッドの白いシーツに、ぽたっと涙が落ちた。
「本当に、ごめんなさい……」
あの時、信じきれなかったこと。
怖くて、一歩踏み出すのが遅れたこと。
助けを求めていたサインに、気づいていながら目を逸らしたこと。
全部、全部。
私は顔を伏せたまま、嗚咽を噛み殺していた。
すると、かすかに布が擦れる音がして、次の瞬間、あたたかい感触が私の肩に触れた。
「……日菜」
弱々しい、でも確かに愛梨の声。
「私ね……ずっと一人だって思ってた」
胸が、ぎゅっと掴まれる。
「でも、今こうして日菜が泣いてくれてるの見て……私、ちゃんと大切にされてたんだって、分かった」
「愛梨……っ」
私は耐えきれず、彼女の身体に縋りついた。
細くて、あの日よりずっと軽くなった気がして、また涙が溢れる。
「私、嫌われたって、信じられなくなって……逃げてた」
「でも……もう逃げない」
愛梨の腕が、ぎこちなく私の背中に回る。
力は弱いのに、その温もりが、何よりも確かだった。
「日菜」
「私たち、ちゃんと話そう。これからは……一緒に」
「……うん」
保健室には、静かな午後の光が差し込んでいる。
カーテンが揺れて、消毒薬の匂いがふわりと漂う。
私たちは言葉を失ったまま、しばらく泣き続けた。
取り戻せなかった時間の分まで。
すれ違ってしまった気持ちの分まで。


