記憶の欠片

 あれから数週間が経ち、季節はすっかり秋になっていた。


 音楽室の大きな窓から差し込む光は、夏の白さを失って、柔らかなオレンジ色に変わっている。


 校庭の向こう、並木道は赤や金色に染まり、風が吹くたび、葉がはらはらと舞い落ちていく。


 その景色を背に、音楽室には少し甘い木の匂いと、古い楽器の匂いが混ざって漂っていた。


 今日の音楽の授業は、自由席。


 私は自然と、日菜の隣を選ぶ。


 木製の椅子に腰を下ろすと、少し軋む音がして秋の静けさに溶け込んだ。


「音楽室ってさ、秋が一番似合うと思わない?」


 日菜が小声で言って、窓の外を指差す。


「分かる。なんか、音まで柔らかくなる気がする」


 そう答えながら、私はもう一度オレンジ色の景色に目を向けた。


 胸の奥には、まだ温度の残る想い。


でも、こうして並んで座っていると、少しだけ心が落ち着く。


 季節は変わっていく。


 けれど、変わらないものも、確かにあって。


 私は、静かに深呼吸をして、秋色の光に包まれながら、音楽の授業が始まるのを待っていた。



 チャイムの音が、澄んだ余韻を残して音楽室に響いた。


 カーン、と高い音が天井に反射して、秋の空気に溶けていく。


「はーい、じゃあ始めますよー」


 先生の少し間延びした声とともに、今日の授業が始まった。


「今日のテーマはね、いろんな楽器に触れてみよう、です」


 ざわ、と小さなどよめきが起こる。


 先生はそう言うと、準備室の扉を開けて、奥から次々と楽器を運び出してきた。


 小さなタンバリンやカスタネット。


 木の温もりを感じるウッドブロック。


 銀色に光るトライアングル。


 少し大きめのアコースティックギター。


 ケースに入ったままのバイオリン。


 そして、存在感のある大きなチェロまで。


 床に並べられていくたび、音楽室が一気ににぎやかになる。


 先生は再び準備室へ戻り、「まだあるよー」と声をかけながら、奥からさらに楽器を運び出してくる。


 ひとつ、またひとつ。


 その中に——見慣れない、大きな楽器があった。


 ゆるやかな弧を描くフレーム。


 幾本も張られた弦が、窓から差し込む秋の光を受けて、静かにきらめく。


 私は席に座りながら、その姿をぼんやりと眺めていた。


 先生が椅子に腰掛ける。


 そして——


 指先が、弦に触れた。


 ぽろん。


 柔らかな音が、音楽室いっぱいに響いた。


 その瞬間。


 「……っ」


 頭の奥が、突然揺れた。


 ——痛い。


 今まで感じたことのないような痛みだった。


 「……っ、あ……」


 視界が滲む。


 音楽室の景色が、ぐにゃりと歪んでいく。


 ハープの音が遠くなる。


 ——倒れる、その直前。


 滲む視界の端で、ひとつの影が勢いよく近づいてくるのが見えた。


「……愛梨!」


 私の名前を呼ぶ声。


 聞き慣れた、少し掠れた声。


 日菜だ。


 椅子を引く音、床を蹴る音。


 彼女が私の方へ駆け寄ってくるのがスローモーションみたいに映る。


 その顔を見た瞬間、なぜか、胸がきゅっと締め付けられた。


 焦り。


 恐怖。


 そしてはっきりと分かる、後悔の色。


 どうして、そんな顔を——そう思ったところで、思考は途切れる。


 日菜の唇が、もう一度私の名前を形作るのが見えた。


 必死に伸ばされた、その手。


 届く前に、世界が、完全に暗くなった。


 音楽室のオレンジ色の光も、ざわめきも、ハープの弦のきらめきも——


 すべて、闇に溶けていった。