記憶の欠片

 同じ傘の下で、私たちは歩き出した。


 雨はますます強くなって、視界の向こうが白く滲んでいく。

 無数の雨粒が地面を叩き、跳ね返り、まるで世界と私たちの間に雨のカーテンが降ろされたみたいだった。


 傘の外は嵐なのに、この小さな円の中だけ、妙に静かだ。


 慧の肩越しに聞こえる雨音は、遠くで鳴っているみたいで。


 気まずい沈黙。


 変に脈を打つ心臓。


 ドクン、ドクン、と自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。


 ……今の私、なんか変だ。


 そんな空気を切るみたいに、慧が唐突に口を開いた。


「なぁ」


 雨を見つめたまま、低い声で。


「今日もあいつらに傘、取られたんだろ」


 ぎくり、と胸が跳ねる。


 やっぱり、全部お見通しだった。


 私は小さく、コクンと頷いた。


「はぁ……」


 ため息が、傘の内側に溶ける。


 雨の匂いと、少し湿った空気。


 うぅ、居心地が悪い。


 俯いた瞬間、足音が止まった。


「愛梨」


 呼ばれた声は、さっきよりずっとやさしい。


「こっち向いて」


 雨が傘を叩く音が、急に近くなる。


 ゆっくり顔を上げると、まっすぐな視線が重なった。


 二人きりの空間。


 雨のカーテンに守られて、外の世界から切り離されたみたいだ。


「次から、何かあったら俺に言って?」


 慧は、少しだけ眉を下げて。


「俺が愛梨を守るから……さ」


 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


 まるで、ずっと気づかないふりをしていた小さな蕾が、いっせいに花開くみたいに。


 ドキン、と心臓が跳ねる。


 さっきまでの落ち着かない鼓動とは違う、もっと深い場所から湧き上がる震え。


 目の前の慧の顔が、急に違って見える。


 いつも隣にいた幼なじみじゃない——もっと、ずっと大事な、かけがえのない人に変わっていく瞬間だった。


 ああ、そうだったんだ。


 胸の奥がじんわりと熱くなって、その熱がゆっくりと全身に広がっていく。


 雨の冷たさも、制服の濡れた感触も、全部どうでもよくなるくらいに。


 理由なんて、もういらない。


 ただ、この人に守られたいと思った。


 この人の隣で、笑っていたいと思った。


 この人の名前を、特別な響きで呼びたいと思った。


 全部、ぜんぶ、恋だったんだ。


 今まで「幼なじみ」という言葉に甘えて、見ないようにしていたこの気持ち。


 当たり前に隣にいることが、どれだけ奇跡みたいに幸せなことか、今やっとわかった。


 慧のまっすぐな瞳に映る自分が、少し泣きそうに見えた。


 雨は冷たいはずなのに、胸の奥だけがじんわり熱い。


 世界が雨に溶けて、この傘の中には私と慧しかいない。


 雨の冷たさも、世界のざわめきも、全部遠くなる。


 この瞬間、はっきり分かった。


 ああ、私——この人に恋をしたんだ、と。


 ずっとずっと前から、きっと、恋をしていたんだ、と。


 傘の下、二人だけの世界で、私の初めての恋が、静かに、でも確かに、始まった。