記憶の欠片

 中学二年生の、夏だった。


 いつから始まったのかは、もうはっきり覚えていない。


 気づいたら、私が“標的”になっていた。


 机の落書き。


 聞こえるように言われる陰口。


「お父さんいないんでしょ」


 そんな言葉を、笑いながら投げつけられる。


 しんどかった。


 正直、何度も心が折れそうになった。


 それでも私は、休まなかった。


 学校に行かない理由を作るのが、怖かった。


 逃げたって思われるのが、悔しかった。


 味方はいなかった。


 ……正確に言えば、作らなかった。


 誰にも相談しなかったから。


 大丈夫なふりをするのが、癖になっていたから。


 必死に、何も感じていないふりをして、ただ毎日をやり過ごしていた。


 ——そんなある日。


 台風が近づいている季節で、空は朝から不機嫌そうに曇っていた。


 案の定、放課後には大雨。


 バケツをひっくり返したみたいな、容赦のない雨だった。


 下駄箱に行って、そこで気づく。


 ……傘が、ない。


 誰かが間違えて持っていった訳ではなさそうだ。


 置いていたはずの場所だけ、綺麗に空っぽだった。


 胸の奥が、すうっと冷えていく。


 帰れない。


 この雨の中、傘なしで。


 このまま走って帰ろうか。


 濡れて、笑われて、それでも——


 そう思って一歩踏み出そうとした、その時。


「……愛梨?」


 聞き慣れた声がした。


 振り向くと、そこにいたのは小学生の頃から何度も一緒に帰ったことのある人。


 慧だ。


 彼はそれ以外何も言わずに、ただ一言。


「……愛梨、傘、入ってく?」


 顔は少し赤くて、首をコテン、と不器用に傾けている。


 ——ああ。


 この人は、分かってたんだ。


 私に何が起きているのか。


 傘がないことも、きっと。


 見越したみたいなタイミングで、そう声をかけてくれた。


 でも。


 相合傘、だ。


 一瞬、言葉が途切れる。


 雨音だけが、やけに大きくなる。


「……あーもう」


 慧は照れたように視線を逸らしてから、少し乱暴に言った。


「恥ずいから、早く入って」


 次の瞬間、腕をぐいっと引かれる。


「え、あっ……」


 バランスを崩した私の身体が、そのまま慧の胸元に引き寄せられる。


 視線を上げると、すぐそこに──薄く色づいた唇があった。


 息が触れそうなくらいの距離。


 一拍遅れて、二人同時に気づく。


「っ、ごめん!」


 慧は慌てて手を離し、距離を取る。


 雨の中、傘だけがぎこちなく揺れた。


 ちらりと彼を見ると、顔が真っ赤で困ったように笑っていた。


「……だ、大丈夫?」


 その一言で、胸がぎゅっと詰まる。


 心臓の音が、うるさい。


 雨音に紛れてくれない。


 こんなの——意識しない方が、おかしい。


 傘の下は狭くて、でも不思議と離れたくなくて。


 私は俯いたまま、ただ小さく頷いた。


 雨は相変わらず激しく降っているのに、胸の奥だけが熱を帯びたままだった。