記憶の欠片

フラワーショップを出て、少し歩いたところで日菜と別れた。


 手を振る彼女の背中は、夕暮れの中にすぐ溶けていく。


 空は、いつの間にか重たい色をしていた。


 昼間の名残を引きずった明るさの奥に、鉛色の雲がゆっくりと広がっている。


 風が止み、街の音が妙に遠く感じられる。


 ——夕立の前の、あの静けさ。


 胸の奥が、理由もなくざわついた。


 ……何も、嫌なことが起こらないといいけど。


 そう思った、その矢先だった。


 ぽつり。


 肩に、小さな冷たさが落ちる。


 次の瞬間、空気が一気に崩れて、雨粒が地面を叩き始めた。


「やっぱり……」


 通りを行き交う人たちが、慌てて動き出す。


 傘をさして足早に歩く人。


 軒下に駆け込む中学生たち。


 ネクタイを片手で押さえながらずぶ濡れで走り抜けていくサラリーマン。


 それぞれの事情を抱えたまま、雨の中ですれ違っていく。


 私も慌てて走り出す。


 少し先に見えた建物の軒先へ駆け込み、濡れた髪を手で整えた。


 「……びっくりした」


 息を整えながら、道路の向こうを見る。


 雨はどんどん強くなっていく。


 横断歩道を挟んだ向かい側。


 そこに、一軒の本屋があった。


 しばらくすると、自動ドアが開く。


 見覚えのある姿が出てきた。


 「……日菜?」


 どうやら雨宿りをするために本屋へ入っていたらしい。


 その隣に。


 もう一人、人影が現れた。


 黒い髪。


 見慣れた横顔。


 「……月城くん…」


 どうして。


 胸が、きゅっと締まる。


 彼は日菜の隣に立つと、持っていた傘を開いた。


 そして、何気ない仕草で日菜へ差し出す。


 「……入って」


 声までは聞こえない。


 けれど、そう言ったのだと分かった。


 日菜が少し驚いたようにして、それから傘の中へ入る。


 二人が歩き出した。


 一本の傘の下。


 並んで歩く二人の姿。


 私は、ただそれを見つめていた。


 少しずつ、二人の背中が遠ざかっていく。


 雨に滲んで、輪郭がぼやけていく。


 嫌だ。


 そんなふうに、他の女の子に笑わないで。


 気づいたら、手が前に伸びていた。


 名前を呼ぼうとして、唇が動く。


 でも、声は雨音に溶けて形になる前に消えてしまう。


 二人は気づかない。


 私の存在なんて、最初からいなかったみたいに。


 下唇をぎゅっと噛みしめる。


 何もできない自分が、悔しくて情けなくて。


 視線を落とした、その瞬間だった。


 ——ぐらり。


 頭の奥で、何かが弾けた。


 雨音が遠のき、代わりに別の音が流れ込んでくる。


 校舎の軋む音。


 風に揺れるカーテン。


 夕方の、少し冷たい空気。


 誰かが、私の名前を呼んでいる。


「……愛梨」


 懐かしい声。


 胸が、きゅっと締めつけられる。


 視界がぶれて、重なっていく。


 今の雨の景色と、過去の光景が、混ざり合う。


 ——知ってる、この感じ。


 心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。


 足元が不安定で、世界が遠ざかっていく。


 まただ。


 また、記憶が——


 私は思わずその場で立ち止まり、胸元を押さえたまま、激しくなる雨の中に取り残された。