記憶の欠片

 夏休みは、あっという間に過ぎていった。


 海へ行った日。


 日菜とショッピングをした日。


 プールではしゃいで、帰り道にアイスを食べた日。


 どれも、くだらないことで笑って。


 気づけば、写真フォルダにはたくさんの思い出が増えていた。


 ——高校生になって、初めての夏。


 思っていたよりずっと、楽しかった。


 そして。


 夏休みが終わり、また学校が始まった。


 まだ暑さの残る放課後。


 私は日菜と並んで、商店街の奥にあるフラワーショップへ向かう。


 古いレンガの外壁。


 色あせた木製の看板。


 ガラス越しに見えるドライフラワーが、時間そのものを閉じ込めたみたいで。


 中に入ると、アンティークでヴィンテージな雰囲気が一気に広がった。


 天井から吊るされたガラス瓶、くすんだ真鍮の花器、ほのかに香る土と花の匂い。


 「いい匂い……」


 日菜が小さく呟く。


 カウンターの奥には、若い女の店員さんがいて、柔らかな笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけてくれた。


 店内を歩いていると、私はふと、視線を引き寄せられる。


 小さくて、白くて、鈴のように下を向いて咲く花。


 「……あ」


 思わず指を差す。


 「鈴蘭、可愛いですね」


 店員さんが気づいて、そっと近づいてきた。


 「鈴蘭の花言葉、知ってますか?」


 首を横に振ると、彼女は少しだけ微笑んで教えてくれた。


 「——“再び幸せが訪れる”、です」


 その言葉が、胸の奥に、静かに落ちていく。


 秋の光に照らされた白い花は、控えめなのに、どこか強くて。


 ……再び、幸せが。


 私はそっと鈴蘭を見つめたまま、その意味を、心の中で何度もなぞっていた。


 ……再び、幸せが訪れる、か。


 その言葉が、なぜだか心に引っかかった。


 私は記憶を失っている。


 だから、今の私には知らないことがたくさんある。


 でも。


 もし私が忘れてしまった過去に、幸せな時間があったのなら。


 それがもう一度訪れることも、あるのだろうか。


 「……素敵ですね」


 そう呟くと、店員さんは穏やかに笑った。


 その隣で、日菜が別の花をじっと見つめていた。


 「日菜」


 「ん?」


 声を掛けると、彼女は少し驚いたように顔を上げる。


 「この花、可愛いなって」


 日菜が指差したのは、小さなピンク色の花だった。


 「ディアスキアっていうお花ですね」


 店員さんが教えてくれる。


 「花言葉は……『私を許して』です」


 その瞬間。


 日菜の表情が、ほんの少しだけ曇った。


 「……私を、許して」


 小さく繰り返す。


 「どうしたの?」


 「……ううん」


 日菜はすぐに笑った。


 「なんか、花言葉って面白いなって思って」


 いつもの笑顔。


 でも、なぜだろう。


 その笑顔が、ほんの少しだけ寂しく見えた。