記憶の欠片

 気づけば、太陽は水平線の向こうへ沈みかけていた。


 茜色だった空は、少しずつ藍色へと溶けていく。


 昼間の暑さも和らぎ、潮風が頬を優しく撫でた。


 浜辺には、小さな屋台の灯りが並び始める。


 「そろそろ花火しよ!」


 日菜が袋いっぱいの手持ち花火を抱えて戻ってきた。


 「いっぱい買っちゃった!」


 「そんなに!?」


 思わず笑ってしまう。


 砂浜に四人でしゃがみ込み、一本ずつ花火を手に取る。


 ライターの火が移ると、小さな光がぱちぱちと弾け始めた。


 「わぁ……!」


 オレンジ色の火花が夜の海を照らす。


 波の音に混ざって、小さな笑い声が響いた。


 日菜は湊音くんと線香花火を比べ始め、二人で少し離れた場所へ歩いていく。


 気づけば。


 私の隣には、月城くんだけが残っていた。


 少しだけ沈黙が流れる。


 ぱちっ。


 花火が小さく音を立てる。


 「……綺麗だね」


 思わず呟くと、


 「……うん」


 月城くんも静かに答えた。


 それだけ。


 それだけなのに、不思議と心が落ち着く。


 花火の光が、月城くんの横顔を優しく照らしていた。


 その時。


 私の花火の火が弱くなり、消えかける。


 「あっ……」


 すると月城くんは何も言わず、自分の花火をそっと近づけてくれた。


 小さな火が移る。


 ぱっと光が戻った。


 「ありがとう」


 顔を上げると、目が合う。


 ほんの一瞬。


 月城くんは優しく笑った。


 昔から知っている人を見るような、どこか懐かしい笑顔。


 胸が、きゅっと締めつけられる。


 ……この笑顔。


 どこかで見たことがある気がする。


 そう思った次の瞬間だった。


 月城くんは我に返ったように視線を逸らし、一歩だけ距離を取った。


 近づいたと思ったら、離れていく。


 その繰り返し。


 まるで、見えない境界線が私たちの間にあるみたいだった。


 ……どうして。


 私、何かしたのかな。


 月城くんは、いつも優しい。


 文化祭の時も。


 図書室でも。


 今日だって、さりげなく火を分けてくれた。


 なのに、その優しさはいつも途中で途切れてしまう。


 まるで、自分から距離を作っているみたいに。


 分からない。


 本当に分からない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 月城くんの背中が少し遠ざかるたびに、胸の奥が静かに痛む。


 近づきたいのに、近づいてはいけないみたいな。


 そんな空気が、確かにそこにあった。


 ぱちっ。


 最後の花火が静かに消えた。


 世界から、光が、色がすっと抜け落ちる。


 足下もおぼつかない暗闇。


 残るのは、波の音だけ。


 …その静けさの中で、背中にそっと温もりが触れた。


 「……っ」


 息が止まる。


 月城くんの腕が、私の身体を包んでいた。


 後ろから。


 優しく、けれど逃がさないみたいに。


 まるで――ずっと堪えていたものが、限界を越えてしまったみたいに。


 「……月城、くん?」


 声が震える。


 返事はない。


 ただ、背中越しに伝わる鼓動だけが、異様なほど速かった。


 その音に引きずられるように、私の心臓まで乱れていく。


 「……ごめん」


 耳元で、掠れた声が落ちた。


 いつもの月城くんの声じゃない。


 言葉を選ぶ余裕もないまま、こぼれ落ちたみたいな声。


 「……なんで、謝るの」


 問いかける。


 けれど、彼は答えない。


 代わりに、ほんの少しだけ腕に力がこもった。


 離したくない、と言われているみたいで。


 その瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 苦しい。


 なのに――嫌じゃない。


 むしろ、この温もりを、どこかで知っている気がした。


 初めてのはずなのに。


 どうして――こんなに、切ないの?


 「……星宮」


 名前を呼ぶ声が、すぐ耳元で揺れた。


 「俺……」


 そこで、言葉が途切れる。


 長い沈黙。


 月城くんの呼吸だけが、少しずつ乱れていくのが分かる。


 何かを言おうとしている。


 ずっと胸の奥に押し込めてきた何かを。


 「……俺、ずっと――」


 その先を聞く前に。


 「愛梨〜、慧ー!」


 日菜の声が、遠くから夜を切り裂いた。


 現実に引き戻されるみたいに、空気が一気に動く。


 月城くんの腕が、はっとしたように緩んだ。


 「……っ」


 私は小さく息を呑む。


 離れていく。


 さっきまで確かにあった温もりが、急に現実の輪郭を失っていく。


 彼は一歩、後ろに下がった。


 まるで、何もなかったみたいに。


 「……行こ」


 短く、それだけ。


 いつもの声。


 いつもの距離。


 でも、その一瞬前までの彼を知ってしまったせいで、胸がうまく追いつかない。


 「……うん」


 私はうなずくしかなかった。


 砂浜を踏む音だけが、やけに大きく響く。


 少し前を歩く背中は、もう振り返らない。


 その背中が、さっきまで私を抱きしめていた人と同じだなんて、信じられないくらい遠い。


 「愛梨ー! 遅いってばー!」


 日菜が手を振っている。


 その明るさが、余計に胸を締めつけた。


 私は小さく笑おうとして、うまくできなかった。


 ただ、歩く。


 隣に並んだ月城くんは、何も言わない。


 何も起きていないみたいに、夜の道を進んでいく。


 でも、私は知ってしまった。


 さっきの温もりが、嘘じゃなかったことを。


 あの「ごめん」が、ただの謝罪じゃなかったことを。


 そして――


 言いかけて、飲み込まれた言葉の続きが、もう戻ってこないことを。


 夜風が、少しだけ冷たくなって。


 群青色の空に、小さな光がひとつだけ瞬く。


 まだ夜になりきっていない空。


 誰よりも早く姿を見せた、一番星。


 でも。


 その小さな輝きに気づいた人は、誰もいなかった。


 波音だけが、静かにその光を見守っていた。