記憶の欠片

 慧side


 校庭には音楽が流れ、笑い声が夜空へ溶けていく。


 そんな中、スマホが震えた。


 画面を見ると、日菜からだった。


 『写真、うまく撮れた?』


 思わず苦笑する。


 あいつ、どこかで見てたのか。


 『……普通に撮った』


 短く返すと、すぐに既読がついた。


 『ふーん😊』


 それだけ返ってきて、また笑ってしまう。


 昔から、日菜は勘がいい。


 校庭で合流すると、開口一番、にやにやしながら俺の顔を覗き込んできた。


 「慧、顔赤くない?」


 「……うるさ」


 昔から敵わない。


 二人で校舎へ戻る。


 昼間まで賑わっていた廊下は、今は静かだった。


 窓の外から聞こえる音楽だけが、この日がまだ終わっていないことを教えてくれる。


 しばらく歩いていると、日菜がぽつりと呟いた。


 「……愛梨さ」


 その名前に、足が少しだけ止まりそうになる。


 「やっぱり変だよね」


 俺は黙って前を向いたまま聞いていた。


 「中学の頃のこと、全然話さないし」


 「私のことも、最初は初対面みたいだった」


 「それに……」


 少しだけ間を置いて続ける。


 「慧に対しても、あんなによそよそしいなんて」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 ああ。


 やっぱり。


 俺だけじゃなかったんだ。


 あいつを見ていて感じていた違和感は。


 昔のことなんて、なかったみたいに笑う愛梨。


 俺を見ても、何も思い出さない愛梨。


 あの日々が、本当に最初から存在しなかったみたいに。


 ……それでも。


 それが愛梨の望んだことなら。


 俺はもう、踏み込まない方がいい。


 その方が、きっと。


 愛梨は幸せになれる。


 そう自分に言い聞かせた、その時だった。


 ――ドサッ!!


 校舎の静けさを破るような大きな音が響く。


 音は、一組の教室からだった。


 俺と日菜は顔を見合わせる。


 「……今の音」


 「うん」


 日菜の声が、少しだけ強くなる。


 「慧、行こう」


 その一言で、足が自然と動き出した。


 教室の扉が、少しだけ開いている。


 俺はそっと中を覗いた。


 その瞬間。


 「……っ」


 息を呑む。


 愛梨と湊音が、すぐ近くにいた。


 床に散らばった段ボール。


 どうやら、何かが落ちたらしい。


 思わず一歩引く。


 「慧」


 隣で日菜が小さく囁く。


 俺たちは顔を見合わせると、音を立てないようにしゃがみ込み、扉の陰へ身を隠した。


 聞くつもりなんて、なかった。


 それでも。


 静かな教室から漏れる声は、嫌でも耳に届いてしまう。


 「……記憶は、その後どう?」


 湊音の声。


 少し間があって、愛梨が答える。


 「思い出したいのに、思い出せない」


 「記憶を取り戻すって……難しいね」


 その一言で、世界から音が消えた。


 ……記憶。


 取り戻す。


 思い出せない。


 頭の中で、その言葉だけが何度も繰り返される。


 横を見ると、日菜も目を見開いていた。


 その瞳は揺れていて、何かを必死に堪えているようだった。


 ……そういうことだったのか。


 入学式の日。


 目が合った時。


 昔みたいに、一瞬で通じ合えなかったこと。


 俺を探るように泳いだ視線。


 ぎこちない笑顔。


 全部。


 全部、理由があったんだ。


 愛梨は、過去から逃げていたんじゃない。


 忘れたかったわけでもない。


 あいつは――


 俺との記憶、そのものを失っていた。


 胸の奥が、鈍く痛む。


 苦しい。


 息が詰まる。


 ……そんなの、ずるいだろ。


 俺だけが覚えている。


 俺だけが、あの日々を抱えたまま。


 君は、何も知らない顔で笑っていた。


 それが悪いわけじゃない。


 悪いわけじゃ、ないのに。


 どうしてこんなにも、苦しいんだ。


 何も知らないまま、勝手に「忘れられた」と思い込んで。


 勝手に距離を置いて。


 ……情けないな。


 拳を握る。


 爪が掌に食い込む。


 隣で、日菜が小さく呟いた。


 「──ほんとに、後悔しないの?」


 静かな廊下に、その声だけが落ちる。


 「他の人に、愛梨が取られても……いいの…?」


 その言葉に、息が止まった。


 答えようとして、喉が動く。


 でも。


 声にならない。


 ……取られたくない。


 誰にも。


 あいつの隣にいるのは、本当は俺でいたい。


 笑う顔も、泣く顔も。


 全部、俺だけが見ていたい。


 そんな醜い独占欲が、胸の奥で渦を巻く。


 だけど。


 俺じゃ、だめなんだ。


 あの日、守れなかった。


 傷ついた愛梨を、一人にしてしまった。


 そんな俺が、もう一度隣に立つ資格なんてない。


 愛梨が幸せなら、それでいい。


 ……そう思うしかない。


 矛盾してるのは、自分が一番よく分かってる。


 近づく勇気も。


 遠ざかる覚悟も。


 どっちも、まだ持てない。


 でも、これだけははっきりわかる。


 俺が近づけば、愛梨はまた過去に縛られる。


 だから、やっぱり俺は、離れているべきなんだ。


 ……そう思った瞬間、胸の奥がまた軋んだ。


 納得できる理由が見つかったはずなのに、気持ちは少しも軽くならない。


 俺はゆっくりと目を閉じる。


 守れなかった過去。


 忘れられてしまった時間。


 それでも——それでも、まだ。


 俺は……。


 言葉にならない感情が、喉の奥で絡まったまま消えなかった。