それから、時間はあっという間に過ぎていった。
夕方になり、文化祭は少しずつ終わりへ向かっていく。
教室に戻ると、メイド服からクラスTシャツへ着替えた。
鏡に映る自分は、朝とは全然違う姿。
「日菜!」
校庭から日菜の声が聞こえる。
外へ出ると、そこにはたくさんの人が集まっていた。
音楽が流れて、友達同士で写真を撮って。
笑い声が夜の空気に溶けていく。
「高校の文化祭って、こんなに楽しいんだね」
私が呟くと、日菜は笑った。
「そうだね!」
その笑顔を見て、私も笑う。
しばらく二人で後夜祭を楽しんだ。
写真を撮ったり。
くだらない話をしたり。
気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
ふと、私は周りを見渡す。
……月城くん、どこにいるんだろう。
さっきから、姿を見ていない。
「日菜」
「ん?」
「ちょっと探してくるね」
日菜が少しだけ目を丸くする。
「慧のこと?」
「……うん」
自分でも、どうして探したいのか分からなかった。
ただ、今日という日を。
この瞬間を…写真に残したかった。
みんなと、そして月城くんとも。
「行ってらっしゃい」
日菜は何かを察したように笑った。
私はその笑顔に少し照れながら、校舎へ向かって歩き出した。
夜の校舎は、昼間とは違う雰囲気だった。
明かりの消えた廊下。
窓から差し込む校庭の光。
校舎の中を歩いていると、ふと足が止まった。
なぜか分からない。
でも、ここだと思った。
静かな廊下。
図書室へ続く階段。
そして、少し開いた扉の向こう。
風に揺れるカーテン。
私はゆっくりと歩み寄る。
バルコニーには、やっぱり彼がいた。
月城くん。
手すりに寄りかかりながら、夜の校庭を眺めている。
「……やっぱり」
声をかけると、彼が振り向いた。
「月城くん、ここにいるって予感してた」
そう言うと。
一瞬、彼の目がわずかに揺れた。
そして。
「……そっか」
穏やかに笑った。
その笑顔は、昼間みたいな誰にでも向けるものじゃなくて。
どこか、安心したような。
昔を思い出しているような笑顔だった。
胸が、少しだけ熱くなる。
私は慌てて視線を逸らした。
顔が熱い。
なんでだろう。
ただ、会いに来ただけなのに。
「……あの」
小さく声を出す。
「写真……撮りたい」
俯いたまま言う。
「文化祭の思い出に」
数秒の沈黙。
少し不安になって顔を上げると。
月城くんは、少し困ったような表情をしていた。
「……俺と?」
「うん」
彼は視線を逸らす。
そして、小さく息を吐いた。
「……いーよ」
その言葉は、いつもの彼らしく淡々としていた。
でも、耳が少し赤くなっている気がした。
私は気づかないふりをして、スマホを取り出す。
隣に並ぶ。
たったそれだけなのに。
心臓が、いつもより少しだけうるさい。
画面の中には、笑った私と、少しだけ照れたような月城くん。
たった一枚の写真。
それなのに、胸の奥が、不思議なくらい温かかった。
「……ありがとう」
私がそう言うと、彼は小さく頷いた。
「うん」
短い返事。
でも。
その声が、いつもより少し柔らかく聞こえた。
もう少し。
もう少しだけ、ここにいたい。
そう思った。
でも、このまま隣にいたら…きっと。
私の知らない何かまで、見透かされてしまいそうだった。
月城くんの視線。
言葉の選び方。
時々見せる、懐かしそうな表情。
全部が、私の知らない過去に繋がっている気がする。
そこに土足で踏み込んでしまうのが、怖かった。
少しの躊躇いの後。
「……じゃあ、私戻るね」
気づけば、そう言っていた。
「え?」
一瞬だけ、彼の表情が変わる。
引き止めるような。
でも、すぐに消える。
「……そっか」
いつもの穏やかな顔に戻った。
「じゃあ、また」
その言葉に、小さく頷く。
そして私は、逃げるようにバルコニーを後にした。
廊下を歩きながら、胸に手を当てる。
まだ、鼓動が速い。
……どうして?
私は何を怖がっているんだろう。
答えは出ないまま。
気づけば、私は1組の教室へ戻っていた。
「……ふぅ」
扉を開ける。
そこには、誰もいなかった。
さっきまで賑やかだった教室は、嘘みたいに静かだった。
ほとんどの生徒は、後夜祭を楽しむために校庭へ出ている。
暗い教室。
窓の外には、校庭。
色とりどりのライト。
人の輪。
音楽に合わせて揺れる影。
ここから見ると、まるで別の世界みたいだった。
ガラス越しに届くざわめきは、少し遠くて、少し柔らかい。
……静かだ。
ほっと息を吐いた、そのとき。
コツ、コツ、と廊下から足音が近づいてくる。
誰だろう、と思って振り向く前に一組の扉が、きぃ、と小さく開いた。
ひょこっと顔を覗かせたのは——
「……やっぱり、ここにいた」
湊音くんだった。
廊下の明かりを背にして、少し気だるそうに笑う。
「外にいなくなったからさ。探した」
どうしてか、その一言だけで胸の奥が、わずかに波打つ。
私は窓から離れてロッカーに背を預け、小さく肩をすくめた。
「ちょっと、休憩」
「だよな。二日間、よく頑張ったよ」
そう言いながら、湊音くんは教室に入ってきて、近くの机に腰を下ろす。
校庭の音楽が、また少し遠ざかった。
静かな教室に、夜風と、二人分の気配だけが残る。
後夜祭はまだ続いているのに、ここだけ時間がゆっくり流れているみたいだった。
しばらく、二人で他愛ない話をした。
「文化祭、どうだった?」
湊音くんが机に肘をつきながら聞いてくる。
「疲れたけど……楽しかった、かな」
「それな。でも一番印象に残ってるのは——」
少し間を置いて、にやっと笑う。
「お化け屋敷の、橘」
「あ……」
思い出しただけで、口元が緩む。
「すごかったよね。悲鳴が校舎中に響いてた気がする」
「だよな、あのビビり方は反則だって」
二人でくすくす笑う。
さっきまでの疲れが、少しだけ和らいでいく。
校庭から聞こえる音楽は、もう遠くてここには届かない。
「こうしてるとさ」
湊音くんが、窓の外を一瞬だけ見てから言う。
「文化祭、もう終わりなんだなって感じる」
「……うん」
少しだけ、寂しい。
そんな空気が流れた、そのときだった。
——ガタッ。
教室の上の方から、何かがずれるような音がした。
「……え?」
私が顔を上げた瞬間、
ガタン、ガタンッ!
ロッカーの上に積まれていた段ボールが、一気に傾く。
「星宮——!」
湊音くんが声を上げるより早く、資材が雪崩のように落ちてきた。
ガムテープ、紙袋、装飾の残骸。
床に叩きつけられて、教室中に鈍い音が響く。
反射的に身をかがめて、私は思わず目を閉じた。
文化祭の喧騒とは無縁だった教室が、一瞬で、騒然とした空気に包まれる。
そして、落ち着いた静寂が戻るまで、ほんの数秒。
何も、降ってこなくなったのを感じて、私はゆっくりと、目を開ける。
——近い。
思考より先に、それだけが分かった。
すぐ目の前にあったのは、湊音くんの顔。
息がかかるほどの距離で、彼の表情が、はっきりと見える。
筋の通った鼻。
影が落ちて、横顔の線を際立たせている。
きゅっと結ばれた薄い唇は、何かを耐えるみたいに強張っていて。
長いまつ毛が、伏せられた目元に影を作る。
その奥で、眉がわずかに寄っているのが分かった。
——苦痛に歪んだ顔。
彼は歯を食いしばって、私のすぐ後ろのロッカーに手をついていた。
壁ドン、なんて言葉じゃ軽すぎる。
倒れてきた資材から、私を覆うように庇って、自分の背中を盾にした姿勢。
「……っ」
小さく、息を詰める音。
私の頭の横で、彼の手がロッカーを強く掴んでいる。
湊音くんの体が、私と壁の間にすっぽり収まっていて、逃げ場なんてどこにもない。
「……湊音、くん……?」
名前を呼ぶと、彼のまつ毛が、ぴくりと揺れた。
後夜祭の喧騒は、もう遠い。
静まり返った教室で、彼の呼吸と、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
しばらく、二人とも動けなかった。
教室に散らばった資材の音が完全に消え去ったあとも、時間だけが止まったみたいだった。
数秒。
でも、やけに長く感じる。
湊音くんの目が、私を捉えたまま離れない。
息が整っていくのが分かるのに、距離だけは、縮まったまま。
先に動いたのは、湊音くんだった。
「……っ」
はっとしたように目を逸らして、壁についていた手を離す。
「ご、ごめん…!」
一歩、二歩と急いで距離を取る。
私は、少し遅れて体を起こした。
「ちがう……謝るのは、私の方」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「不注意で……ごめん」
湊音くんは一瞬、言葉に詰まったようにしてから、「いや……」と小さく首を振る。
教室に、また静けさが戻る。
散らばった段ボールとガムテープ。
さっきまでの出来事が、現実だったことを、無言で主張していた。
——後夜祭の裏で、こんなことが起きるなんて。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
もし、誰かに見られていたら。
この距離、この体勢。
きっと、変な勘違いをされていただろうな。
そう思って、胸の奥が少しだけざわついた。
湊音くんは視線を落としたまま、気まずそうに頭をかく。
遠くから、校庭の音楽がかすかに聞こえてきた。
楽しげな声。
笑い声。
その裏側で、誰にも知られずに起きた出来事を私はそっと、胸の奥にしまい込んだ。
湊音くんは、わざとらしく一つ咳払いをした。
さっきまでの沈黙を、振り払うみたいに。
「……なあ」
「……記憶は、あの後どう?」
私は少しだけ俯く。
「まだ何も」
胸元をぎゅっと握る。
「思い出したいのに、思い出せない」
「記憶を取り戻すって、思ってたよりずっと難しいね」
湊音くんは何も急かさなかった。
ただ、静かに私の言葉を聞いてくれる。
その優しさが、少しだけ嬉しかった。
「それとね……」
私は少し迷ってから口を開く。
「月城くん」
その名前を口にした瞬間、湊音くんの表情がわずかに変わる。
「なんとなく……分かるの」
「私と月城くんの間には、きっと何かあった」
「でも」
言葉が止まる。
「踏み込むのが、怖い」
「もし全部思い出したら……今の私じゃいられなくなる気がして」
「月城くんを見るたびに、そんな気持ちになるの」
しばらく沈黙が流れる。
やがて湊音くんは、小さく笑った。
「焦らなくていい」
その一言だけだった。
「記憶は、無理に探しに行くもんじゃない」
「きっと向こうから、お前のところに戻ってくる」
その穏やかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
そう言って笑うと、湊音くんも静かに笑い返してくれた。
窓の外では、後夜祭の音楽が遠くでまだ鳴っている。
その裏側の静かな教室で、私たちは、ただ並んで立っていた。
夕方になり、文化祭は少しずつ終わりへ向かっていく。
教室に戻ると、メイド服からクラスTシャツへ着替えた。
鏡に映る自分は、朝とは全然違う姿。
「日菜!」
校庭から日菜の声が聞こえる。
外へ出ると、そこにはたくさんの人が集まっていた。
音楽が流れて、友達同士で写真を撮って。
笑い声が夜の空気に溶けていく。
「高校の文化祭って、こんなに楽しいんだね」
私が呟くと、日菜は笑った。
「そうだね!」
その笑顔を見て、私も笑う。
しばらく二人で後夜祭を楽しんだ。
写真を撮ったり。
くだらない話をしたり。
気づけば、空はすっかり暗くなっていた。
ふと、私は周りを見渡す。
……月城くん、どこにいるんだろう。
さっきから、姿を見ていない。
「日菜」
「ん?」
「ちょっと探してくるね」
日菜が少しだけ目を丸くする。
「慧のこと?」
「……うん」
自分でも、どうして探したいのか分からなかった。
ただ、今日という日を。
この瞬間を…写真に残したかった。
みんなと、そして月城くんとも。
「行ってらっしゃい」
日菜は何かを察したように笑った。
私はその笑顔に少し照れながら、校舎へ向かって歩き出した。
夜の校舎は、昼間とは違う雰囲気だった。
明かりの消えた廊下。
窓から差し込む校庭の光。
校舎の中を歩いていると、ふと足が止まった。
なぜか分からない。
でも、ここだと思った。
静かな廊下。
図書室へ続く階段。
そして、少し開いた扉の向こう。
風に揺れるカーテン。
私はゆっくりと歩み寄る。
バルコニーには、やっぱり彼がいた。
月城くん。
手すりに寄りかかりながら、夜の校庭を眺めている。
「……やっぱり」
声をかけると、彼が振り向いた。
「月城くん、ここにいるって予感してた」
そう言うと。
一瞬、彼の目がわずかに揺れた。
そして。
「……そっか」
穏やかに笑った。
その笑顔は、昼間みたいな誰にでも向けるものじゃなくて。
どこか、安心したような。
昔を思い出しているような笑顔だった。
胸が、少しだけ熱くなる。
私は慌てて視線を逸らした。
顔が熱い。
なんでだろう。
ただ、会いに来ただけなのに。
「……あの」
小さく声を出す。
「写真……撮りたい」
俯いたまま言う。
「文化祭の思い出に」
数秒の沈黙。
少し不安になって顔を上げると。
月城くんは、少し困ったような表情をしていた。
「……俺と?」
「うん」
彼は視線を逸らす。
そして、小さく息を吐いた。
「……いーよ」
その言葉は、いつもの彼らしく淡々としていた。
でも、耳が少し赤くなっている気がした。
私は気づかないふりをして、スマホを取り出す。
隣に並ぶ。
たったそれだけなのに。
心臓が、いつもより少しだけうるさい。
画面の中には、笑った私と、少しだけ照れたような月城くん。
たった一枚の写真。
それなのに、胸の奥が、不思議なくらい温かかった。
「……ありがとう」
私がそう言うと、彼は小さく頷いた。
「うん」
短い返事。
でも。
その声が、いつもより少し柔らかく聞こえた。
もう少し。
もう少しだけ、ここにいたい。
そう思った。
でも、このまま隣にいたら…きっと。
私の知らない何かまで、見透かされてしまいそうだった。
月城くんの視線。
言葉の選び方。
時々見せる、懐かしそうな表情。
全部が、私の知らない過去に繋がっている気がする。
そこに土足で踏み込んでしまうのが、怖かった。
少しの躊躇いの後。
「……じゃあ、私戻るね」
気づけば、そう言っていた。
「え?」
一瞬だけ、彼の表情が変わる。
引き止めるような。
でも、すぐに消える。
「……そっか」
いつもの穏やかな顔に戻った。
「じゃあ、また」
その言葉に、小さく頷く。
そして私は、逃げるようにバルコニーを後にした。
廊下を歩きながら、胸に手を当てる。
まだ、鼓動が速い。
……どうして?
私は何を怖がっているんだろう。
答えは出ないまま。
気づけば、私は1組の教室へ戻っていた。
「……ふぅ」
扉を開ける。
そこには、誰もいなかった。
さっきまで賑やかだった教室は、嘘みたいに静かだった。
ほとんどの生徒は、後夜祭を楽しむために校庭へ出ている。
暗い教室。
窓の外には、校庭。
色とりどりのライト。
人の輪。
音楽に合わせて揺れる影。
ここから見ると、まるで別の世界みたいだった。
ガラス越しに届くざわめきは、少し遠くて、少し柔らかい。
……静かだ。
ほっと息を吐いた、そのとき。
コツ、コツ、と廊下から足音が近づいてくる。
誰だろう、と思って振り向く前に一組の扉が、きぃ、と小さく開いた。
ひょこっと顔を覗かせたのは——
「……やっぱり、ここにいた」
湊音くんだった。
廊下の明かりを背にして、少し気だるそうに笑う。
「外にいなくなったからさ。探した」
どうしてか、その一言だけで胸の奥が、わずかに波打つ。
私は窓から離れてロッカーに背を預け、小さく肩をすくめた。
「ちょっと、休憩」
「だよな。二日間、よく頑張ったよ」
そう言いながら、湊音くんは教室に入ってきて、近くの机に腰を下ろす。
校庭の音楽が、また少し遠ざかった。
静かな教室に、夜風と、二人分の気配だけが残る。
後夜祭はまだ続いているのに、ここだけ時間がゆっくり流れているみたいだった。
しばらく、二人で他愛ない話をした。
「文化祭、どうだった?」
湊音くんが机に肘をつきながら聞いてくる。
「疲れたけど……楽しかった、かな」
「それな。でも一番印象に残ってるのは——」
少し間を置いて、にやっと笑う。
「お化け屋敷の、橘」
「あ……」
思い出しただけで、口元が緩む。
「すごかったよね。悲鳴が校舎中に響いてた気がする」
「だよな、あのビビり方は反則だって」
二人でくすくす笑う。
さっきまでの疲れが、少しだけ和らいでいく。
校庭から聞こえる音楽は、もう遠くてここには届かない。
「こうしてるとさ」
湊音くんが、窓の外を一瞬だけ見てから言う。
「文化祭、もう終わりなんだなって感じる」
「……うん」
少しだけ、寂しい。
そんな空気が流れた、そのときだった。
——ガタッ。
教室の上の方から、何かがずれるような音がした。
「……え?」
私が顔を上げた瞬間、
ガタン、ガタンッ!
ロッカーの上に積まれていた段ボールが、一気に傾く。
「星宮——!」
湊音くんが声を上げるより早く、資材が雪崩のように落ちてきた。
ガムテープ、紙袋、装飾の残骸。
床に叩きつけられて、教室中に鈍い音が響く。
反射的に身をかがめて、私は思わず目を閉じた。
文化祭の喧騒とは無縁だった教室が、一瞬で、騒然とした空気に包まれる。
そして、落ち着いた静寂が戻るまで、ほんの数秒。
何も、降ってこなくなったのを感じて、私はゆっくりと、目を開ける。
——近い。
思考より先に、それだけが分かった。
すぐ目の前にあったのは、湊音くんの顔。
息がかかるほどの距離で、彼の表情が、はっきりと見える。
筋の通った鼻。
影が落ちて、横顔の線を際立たせている。
きゅっと結ばれた薄い唇は、何かを耐えるみたいに強張っていて。
長いまつ毛が、伏せられた目元に影を作る。
その奥で、眉がわずかに寄っているのが分かった。
——苦痛に歪んだ顔。
彼は歯を食いしばって、私のすぐ後ろのロッカーに手をついていた。
壁ドン、なんて言葉じゃ軽すぎる。
倒れてきた資材から、私を覆うように庇って、自分の背中を盾にした姿勢。
「……っ」
小さく、息を詰める音。
私の頭の横で、彼の手がロッカーを強く掴んでいる。
湊音くんの体が、私と壁の間にすっぽり収まっていて、逃げ場なんてどこにもない。
「……湊音、くん……?」
名前を呼ぶと、彼のまつ毛が、ぴくりと揺れた。
後夜祭の喧騒は、もう遠い。
静まり返った教室で、彼の呼吸と、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
しばらく、二人とも動けなかった。
教室に散らばった資材の音が完全に消え去ったあとも、時間だけが止まったみたいだった。
数秒。
でも、やけに長く感じる。
湊音くんの目が、私を捉えたまま離れない。
息が整っていくのが分かるのに、距離だけは、縮まったまま。
先に動いたのは、湊音くんだった。
「……っ」
はっとしたように目を逸らして、壁についていた手を離す。
「ご、ごめん…!」
一歩、二歩と急いで距離を取る。
私は、少し遅れて体を起こした。
「ちがう……謝るのは、私の方」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。
「不注意で……ごめん」
湊音くんは一瞬、言葉に詰まったようにしてから、「いや……」と小さく首を振る。
教室に、また静けさが戻る。
散らばった段ボールとガムテープ。
さっきまでの出来事が、現実だったことを、無言で主張していた。
——後夜祭の裏で、こんなことが起きるなんて。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
もし、誰かに見られていたら。
この距離、この体勢。
きっと、変な勘違いをされていただろうな。
そう思って、胸の奥が少しだけざわついた。
湊音くんは視線を落としたまま、気まずそうに頭をかく。
遠くから、校庭の音楽がかすかに聞こえてきた。
楽しげな声。
笑い声。
その裏側で、誰にも知られずに起きた出来事を私はそっと、胸の奥にしまい込んだ。
湊音くんは、わざとらしく一つ咳払いをした。
さっきまでの沈黙を、振り払うみたいに。
「……なあ」
「……記憶は、あの後どう?」
私は少しだけ俯く。
「まだ何も」
胸元をぎゅっと握る。
「思い出したいのに、思い出せない」
「記憶を取り戻すって、思ってたよりずっと難しいね」
湊音くんは何も急かさなかった。
ただ、静かに私の言葉を聞いてくれる。
その優しさが、少しだけ嬉しかった。
「それとね……」
私は少し迷ってから口を開く。
「月城くん」
その名前を口にした瞬間、湊音くんの表情がわずかに変わる。
「なんとなく……分かるの」
「私と月城くんの間には、きっと何かあった」
「でも」
言葉が止まる。
「踏み込むのが、怖い」
「もし全部思い出したら……今の私じゃいられなくなる気がして」
「月城くんを見るたびに、そんな気持ちになるの」
しばらく沈黙が流れる。
やがて湊音くんは、小さく笑った。
「焦らなくていい」
その一言だけだった。
「記憶は、無理に探しに行くもんじゃない」
「きっと向こうから、お前のところに戻ってくる」
その穏やかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
そう言って笑うと、湊音くんも静かに笑い返してくれた。
窓の外では、後夜祭の音楽が遠くでまだ鳴っている。
その裏側の静かな教室で、私たちは、ただ並んで立っていた。


