記憶の欠片

 それから、私と日菜はお化け屋敷の中へ足を踏み入れた。


 手渡されたのは、小さなランプ。


 橙色の灯りが、暗闇の中で心もとない円を描く。


「離れないでよ……?」


 日菜が小声で言って、ぎゅっと私の手を握る。


「う、うん……」


 私も握り返して、二人でゆっくりと歩き出した。


 足元の床はきしみ、壁には剥がれかけた紙。


 どこかで、低く呻くような音が響く。


 ……本気だ。


 これ、思ってたより、ちゃんとしてる。


 ランプの光が揺れるたび、影が人の形みたいに歪んで見えて、心臓がそのたび跳ねる。


「ね、ねえ……今、動いたよね?」


「動いてない、たぶん……!」


 そう言った瞬間だった。


 ——ガタン!


 すぐ横の扉が、勢いよく開く。


「きゃあああっ!!」


 二人分の悲鳴が重なって、反射的に身を寄せ合う。


 ランプが大きく揺れて、光が壁を暴れる。


 さらに奥から、ずる、ずる、と何かを引きずる音。


「無理無理無理……!」


「ちょっと完成度高すぎない!?」


 半分泣きそうになりながら、それでも手を離さず、一歩、また一歩と進んでいく。


 怖いのに、なぜか笑いが込み上げてくる。


 悲鳴と笑い声が混ざり合って、暗闇の中に消えていく。


 足場の悪い道を、しばらく進いた。


 床はわざと不安定に作られていて、一歩踏み出すたび、靴底がきしりと音を立てる。


 ……もうすぐ、出口だ。


 そう思った瞬間、道は急に狭くなり、天井も低くなる。


 ランプの光が壁に吸い込まれて、前も後ろも、よく見えない。


 私は息を詰めて、ゆっくり歩いた。


 そのとき。


 ——ぎゅ。


 突然、後ろから肩を掴まれる。


「……っ!?」


 心臓が跳ね上がって、反射的に振り向いた。

 
 白く塗られた肌。


 目元を縁取るフェイスペイント。


 闇に溶けるような衣装。


 完璧なお化けの姿なのに、私には、はっきり分かった。


 月城くんだ。


 肩に触れたところから、じわっと熱が広がっていく。


 怖いはずなのに、胸の奥が、同時にどきどきと騒ぎ出す。


 驚きと、恐怖と、説明のつかない感情が一気に押し寄せる。


 彼は私の反応を確かめるみたいに、ほんの一瞬、目を細めて——妖艶に、笑った。



「……ばあ」


 低く、耳元に落とされる声。


「きゃあああっ!!」


 遅れて、日菜の悲鳴。


「もう無理!!出る!!」


 そう言い残して、日菜はものすごい勢いで教室を出ていった。


 「日菜!?」


 日菜が出て行った扉が閉まる。


 急に、静かになった。


 さっきまで隣にいた日菜の気配が消えて、聞こえるのは小さな音だけ。


 暗闇の中。


 少しの気まずさと、不安から、私はその場を離れようとした。


 「わ、私、もう行くね…!」


 そう言って歩き出そうとした瞬間。


 床に置かれていた小道具に足が引っかかった。


 「……っ」


 身体が傾く。


 次の瞬間。


 強く腕を掴まれた。


 「危ない」


 気づいた時には、私は月城くんの腕の中にいた。


 まただ。


 あの日の階段と同じ。


 突然近くなる距離。


 聞こえる、彼の鼓動。


 「……大丈夫?」


 顔を上げる。


 そこには、少し焦った表情の月城くんがいた。


 いつもの余裕のある笑顔じゃない。


 本当に心配している顔。


 「あ、ありがとう……」


 私がそう言うと、彼ははっとしたように手を離した。


 「……ごめん」


 小さな声。


 「いや、助けてくれたんだから……」


 「違う」


 彼は一瞬、言葉を止めた。


 何かを言いかけて。


 でも、飲み込む。


 「……気をつけて」


 それだけだった。


 また距離を取ろうとする。


 でも、その横顔は少し苦しそうだった。


 「月城くん」


 呼び止める。


 彼が振り返る。


 「月城くんって……優しいね」


 その言葉に、彼は少し目を伏せた。


 「……そんなことない」


 「あるよ」


 私は笑う。


 「だって、さっきも助けてくれた」


 すると彼は、困ったように笑った。


 「……星宮は」


 その名前を呼んでから、一瞬だけ間が空く。


 「昔から、危なっかしいから」


 胸がざわついた。


 昔から。


 その言葉が、引っかかる。


 「……昔?」


 私が聞き返すと、彼の表情が一瞬だけ固まった。


 「……いや」


 すぐにいつもの顔に戻る。


 「なんでもない」


 そう言って歩き出す。


 でも、さっきより少しだけ彼の背中が近く感じた。