名前を呼ばれた。
どこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる声。
「……愛梨」
ゆっくり振り返る。
目の前には、一人の男の子が立っていた。
制服姿。
潮風に揺れる黒い髪。
でも、その顔だけがどうしても見えない。
霞がかかったようにぼやけていて、どれだけ目を凝らしても輪郭すら掴めなかった。
ここは……どこだろう。
波の音が静かに耳をくすぐる。
夜の海はどこまでも穏やかで、月明かりが水面を銀色に染めていた。
見上げれば、満天の星空。
その中で、一つだけ。
まるで私たちを見守るように、一番星が誰よりも強く輝いていた。
彼は少しだけ照れたように笑う。
その笑顔さえ、ぼんやりとして見えない。
それなのに、不思議だった。
この人のことを、私は知っている。
知らないはずなのに。
胸が苦しくなるくらい、大切な人だと分かる。
彼が一歩、私の方へ近づく。
波が足元で優しく砕けた。
「愛梨」
もう一度、名前を呼ばれる。
こんなにも優しく名前を呼ばれたことがあっただろうか。
優しい声が、波音に溶ける。
「もし、いつか全部忘れちゃっても」
彼は夜空を見上げ、一番星へと目を細めた。
「一番星を見たら、俺を思い出して」
「俺はずっと――」
その瞬間。
世界が音もなく白く染まった。
眩しい光が視界いっぱいに広がり、波の音も、夜空も、一番星も、彼の姿もすべて溶けていく。
待って。
その続きだけは聞かせて。
お願い――。
「……っ!」
勢いよく目を開ける。
その瞬間、白い天井が視界いっぱいに広がった。
光を吸い込むように淡くのっぺりとしたその色は、目にじわりと痛みを残す。
まだはっきりしない視界の奥で、かすかな花の匂いがした。
鼻先をくすぐる、やわらかくて甘い香り。
ぼんやりとした頭の中で、私はゆっくりと息を吐く。
──そうだ。
私は、とある事故をきっかけに記憶を失った。
気がつけば、一年ものあいだ眠っていたらしい。
医者からそう告げられた時、私はただ、うまく意味を飲み込めないまま黙ってうなずくことしかできなかった。
「記憶は、無理に思い出そうとしなくていいですよ。日々の生活の中で、少しずつ辿っていきましょう」
あの穏やかな声を、今もはっきり覚えている。
思い出すのは、言葉だけ。
肝心なはずの、自分自身のことは、まだ霧の向こうに隠れたままだった。
私はゆっくりと上体を起こし、枕元に置かれたカレンダーへ目を向ける。
そこには、去年の秋の日付が、ずっと変わらないまま残っていた。
一年、止まったままの時間。
窓の外では、春風に乗った桜がふわりと舞っている。
今日から、高校生活が始まる。
私は小さく息を吸って、ベッド脇のゴミ箱を見た。
そして、そこにカレンダーを丸めて捨てる。
止まった時間は、もういらない。
まだ何も思い出せなくても、今日から始めるしかないのだ。
クローゼットから制服を取り出す。
真新しいブレザーには、まだ折れ目一つなく、春の日差しを受けて静かに艶めいていた。
膝より少し上まで伸びる赤いチェック柄のスカート。
鏡の前に立ち、腰まで伸びた黒髪をゆるく巻いていく。
毛先がふわりと肩をかすめるたび、少しだけ心が軽くなる気がした。
最後に、桜色のグロスを唇へひと塗り。
くるんと上向きに整えたまつ毛。
鏡の中には、少し緊張しながらも、新しい一日を迎えようとする私が映っている。
「……よし」
準備ばっちり。
でも、一つだけ忘れちゃいけないものがある。
机の上に置かれた、小さなガラス瓶。
手のひらに収まるほどの透明な瓶の中には、金平糖によく似た、星の形をした小さな宝石が三つ。
朝の光を受けて、それぞれが淡く色を変えながらきらきらと輝いていた。
誰からもらったものなのか。
理由は分からないけど。
それでも、この瓶だけは絶対に手放してはいけない。
そんな気持ちだけが、記憶を失った今も胸の奥に残っていた。
私はそっとガラス瓶を握りしめる。
小さな星が、かすかに音を立てて揺れた。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。
上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。
地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。
どこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる声。
「……愛梨」
ゆっくり振り返る。
目の前には、一人の男の子が立っていた。
制服姿。
潮風に揺れる黒い髪。
でも、その顔だけがどうしても見えない。
霞がかかったようにぼやけていて、どれだけ目を凝らしても輪郭すら掴めなかった。
ここは……どこだろう。
波の音が静かに耳をくすぐる。
夜の海はどこまでも穏やかで、月明かりが水面を銀色に染めていた。
見上げれば、満天の星空。
その中で、一つだけ。
まるで私たちを見守るように、一番星が誰よりも強く輝いていた。
彼は少しだけ照れたように笑う。
その笑顔さえ、ぼんやりとして見えない。
それなのに、不思議だった。
この人のことを、私は知っている。
知らないはずなのに。
胸が苦しくなるくらい、大切な人だと分かる。
彼が一歩、私の方へ近づく。
波が足元で優しく砕けた。
「愛梨」
もう一度、名前を呼ばれる。
こんなにも優しく名前を呼ばれたことがあっただろうか。
優しい声が、波音に溶ける。
「もし、いつか全部忘れちゃっても」
彼は夜空を見上げ、一番星へと目を細めた。
「一番星を見たら、俺を思い出して」
「俺はずっと――」
その瞬間。
世界が音もなく白く染まった。
眩しい光が視界いっぱいに広がり、波の音も、夜空も、一番星も、彼の姿もすべて溶けていく。
待って。
その続きだけは聞かせて。
お願い――。
「……っ!」
勢いよく目を開ける。
その瞬間、白い天井が視界いっぱいに広がった。
光を吸い込むように淡くのっぺりとしたその色は、目にじわりと痛みを残す。
まだはっきりしない視界の奥で、かすかな花の匂いがした。
鼻先をくすぐる、やわらかくて甘い香り。
ぼんやりとした頭の中で、私はゆっくりと息を吐く。
──そうだ。
私は、とある事故をきっかけに記憶を失った。
気がつけば、一年ものあいだ眠っていたらしい。
医者からそう告げられた時、私はただ、うまく意味を飲み込めないまま黙ってうなずくことしかできなかった。
「記憶は、無理に思い出そうとしなくていいですよ。日々の生活の中で、少しずつ辿っていきましょう」
あの穏やかな声を、今もはっきり覚えている。
思い出すのは、言葉だけ。
肝心なはずの、自分自身のことは、まだ霧の向こうに隠れたままだった。
私はゆっくりと上体を起こし、枕元に置かれたカレンダーへ目を向ける。
そこには、去年の秋の日付が、ずっと変わらないまま残っていた。
一年、止まったままの時間。
窓の外では、春風に乗った桜がふわりと舞っている。
今日から、高校生活が始まる。
私は小さく息を吸って、ベッド脇のゴミ箱を見た。
そして、そこにカレンダーを丸めて捨てる。
止まった時間は、もういらない。
まだ何も思い出せなくても、今日から始めるしかないのだ。
クローゼットから制服を取り出す。
真新しいブレザーには、まだ折れ目一つなく、春の日差しを受けて静かに艶めいていた。
膝より少し上まで伸びる赤いチェック柄のスカート。
鏡の前に立ち、腰まで伸びた黒髪をゆるく巻いていく。
毛先がふわりと肩をかすめるたび、少しだけ心が軽くなる気がした。
最後に、桜色のグロスを唇へひと塗り。
くるんと上向きに整えたまつ毛。
鏡の中には、少し緊張しながらも、新しい一日を迎えようとする私が映っている。
「……よし」
準備ばっちり。
でも、一つだけ忘れちゃいけないものがある。
机の上に置かれた、小さなガラス瓶。
手のひらに収まるほどの透明な瓶の中には、金平糖によく似た、星の形をした小さな宝石が三つ。
朝の光を受けて、それぞれが淡く色を変えながらきらきらと輝いていた。
誰からもらったものなのか。
理由は分からないけど。
それでも、この瓶だけは絶対に手放してはいけない。
そんな気持ちだけが、記憶を失った今も胸の奥に残っていた。
私はそっとガラス瓶を握りしめる。
小さな星が、かすかに音を立てて揺れた。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。
上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。
地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。
