恋を知らないきみへ

「せっかく名前があるのに、呼ばないのもったいないよ」

「……恥ずかしい」

「え?」

「急に名前で呼び合うのは、恥ずかしくて抵抗がある」


……そんな理由?

もっと頑固な理由があるのかと思っていた私は、拍子抜けしてしまう。

でも。

その"恥ずかしい"を口にする木ノ下くんが、どうしようもなく可愛かった。


そして、賑やかな車内なのに木ノ下くんの声だけは、ちゃんと聞こえてくる不思議。

これが恋なのだろうか。


「じゃあ、次会ったら一回ずつ呼び合わない?」

「……嫌だ」

「毎回増やしていくの」

「却下」

「妥協して提案してるのに……」

強固な姿勢の前に、呆気なくプレゼンは終了してしまった。


木ノ下くんの駅は、おしゃべりしているとすぐに着いてしまうからなるべく顔を見て話したいのに、そうさせてくれないのが電車の心地よい揺れ。

揺られているうちにウトウトしてしまっていたらしい。

気づけば木ノ下くんの肩に寄りかかって寝ていた。


『恵比寿』

というアナウンスが遠くから聞こえてきた頃、トントンと優しく肩を叩かれた。


「……あ、降りる駅か」

急いで体を起こすと、木ノ下くんが一瞬周りを気にしたように見回して小声で

「降りるよ」

と立ち上がる。


「うん、明日」

私が手を振り返すと、彼は


「また明日。……ほのか」

と言って振り向きもせずに降りていった。


『ドアが閉まります』

という機械的なアナウンスが流れる。


それでも私は、閉まりゆくドアの向こうをぼんやり見つめたまま動けなかった。


……今、呼んだ。
絶対に呼んだ。

“小関さん”じゃなくて、“ほのか”って。


電車がゆっくり動き出しても、ホームにはもう木ノ下くんの姿はない。

きっと本人は、言い逃げできたくらいにしか思ってない。

でも、私はそのたった三文字だけで、今日一日の幸せを全部更新してしまった。


思わずスマホを取り出す。

『今、名前で呼んだよね?』

送ろうとして、やめた。


きっと返事は、

『呼んだね』とか、『気のせい』とか。
そんな淡白なものに決まってる。

だから今日は、このまま胸の中だけにしまっておこう。


私は窓ガラスに映る自分を見て、小さく笑った。


……負けた。

完全に、負けた。