恋を知らないきみへ

私は次の資料を手に取った。

いつの間にか、イスは最初に座った位置から少しずつ木ノ下くんの方へ寄っていた。

机の中央に置かれたパソコンを二人で見るために、自然と距離が縮まっていたらしい。

肩が触れるほどではない。
けれど、横を向けばすぐ近くに彼の顔がある。

それに気づいた途端、胸がまた騒ぎそうになる。

私は慌てて資料へ視線を落とした。


「次は価格だね」

木ノ下くんが資料をめくる。

競合より約二十万円高い理由。
少し前の会議で、私が答えられなかった質問だった。


「今なら答えられる?」

不意に聞かれ、私は少しだけ考える。

「設備がいいから、じゃ弱いと思う」

「うん。だよね」

「お客さまが二十万円多く払うことで、何を得られるのか。それを伝えないと」

「何を得られる?」

「……時間、かな」


家事に追われる時間。
片付けを気にする回数。
家族に「あとで」と言う回数。

そんな毎日の積み重ねが少しだけ減る。そのための二十万円だ。


木ノ下くんは黙ったままキーボードを打ち始めた。

画面を覗き込むと、スライドには大きく、『家族の時間を増やす住まい』という文字が打ち込まれていた。

「『二十万円で時間を買う』より柔らかいでしょ」

「……こっちの方が好き」

私がそう言うと、木ノ下くんは小さくうなずく。


「さっき言ってた『あとでって言う回数が減る』って話、入れていい?」

「え?」

「役員には、そういう言葉の方が伝わると思う」

思わず木ノ下くんを見る。

褒められたわけじゃない。
でも、自分では何気なく口にした言葉を、彼はちゃんと拾ってくれる。

それは初めて会った時から、そうだった気がする。


「……文章は木ノ下くんが考えて」

「そのままでも十分伝わると思うけど」

「恥ずかしいから嫌」

「じゃあ少しだけ整える」

「うん」

それだけ言うと、また二人で画面へ向き直った。


もう私はさっきまでのように言葉を飲み込まなかった。
木ノ下くんも遠慮なく返してくる。

ページをめくる音とキーボードの音、その合間に途切れず続く会話。

小会議室Bの空気が、少しずつあの頃のものへ戻っていく。


気づけば、木ノ下くんと話すたびに感じていたぎこちなさは、どこにもなくなっていた。




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