恋を知らないきみへ

返事をした私より先に、木ノ下くんが驚いたように同僚を見つめていた。

まるで、“なんで声をかけたの”みたいな顔をして。


「ごめんね、急に声かけて。変な噂を聞いちゃってさ。失礼だと思ったんだけど、まさかなと思って」

軽い調子の口調を聞いて、ふと彼が誰なのか思い出す。


ずいぶん前に、私と木ノ下くんが社食で打ち合わせをしていた時に声をかけてきたマーケ部の同期だ。

仕事で組んだことはないから、名前までは知らない。
でも、あの時木ノ下くんが「同期だよ」と言っていたから結びついた。

同期だからこその、この気軽さなのかもしれないと思いながらうなずく。

「噂?」

聞き返すと、彼は私に近づいて声をひそめた。

「設計部の千崎さんと別れたって……さすがに嘘だよね?」

「え……」

聞いた瞬間、思わず言葉を失う。

そして同時に、少し離れたところで顔を伏せていた木ノ下くんが足を止めたのが見えた。


私が言い詰まったからか、同期らしい彼は申し訳なさそうに慌てて手を振る。

「ごめんごめん!根も葉もない噂だからさ。嘘でしょーって思って、つい」

「……本当だよ」


ただ事実を伝えたつもりなのに、答えた途端に空気が止まったような気がした。

私が放った言葉が落ちて、数秒の沈黙が落ちる。


視界の隅で、木ノ下くんが歩き出す。
反射的に視線で彼を追おうとするのに、さっきの同期の彼が遮った。

「……そっか。……なんか、聞いちゃってごめん」

「ううん、大丈夫」


噂の出どころは分からないけれど、遅かれ早かれ誰かに聞かれるだろうとは思っていた。

それよりも気になるのは──、さっさと歩いていってしまった木ノ下くんだった。


「じゃ、小関さんお疲れ様!」

「うん。お疲れ様でした」

マーケ部の彼は、私が笑みを返すと駆け足で木ノ下くんを追いかけていく。

エントランスで追いついたらしく、二人はなにかを話しながら外へ出ていった。


追いかけることもできないまま、私もゆっくり歩き出す。

さっきまで胸の中だけにしまっていた想いが、誰にも言っていないはずなのに、少しだけ外の世界へこぼれてしまった気がした。