恋を知らないきみへ

───あ、笑うの忘れてた。

緊張のあまり、挨拶だけに全力を注いでしまった。

もちろん、私がそんなことで葛藤しているなんて彼は知らない。
木ノ下くんは軽く会釈をした。

「うん、おはよう」


一週間前に、『話すことないから』と切り捨てるように非常階段から出ていったあの時の木ノ下くんとは、少しだけ違う温度だった。

前のような感じでもないけれど、すごく冷たくはない。

……たぶん無視はできないけど、どうでもいい雑談を挟む余地はないような、そんな温度。


だけど挨拶を返してくれただけでも、今の私にはじゅうぶんだった。


「それじゃあ、始めましょうか」

進行係をつとめる営業部長の声で、会議室のざわめきが静まった。

私も急いで資料を開く。


スクリーンには、前回の修正内容を反映したブランドサイトとパンフレットのラフ案が映し出されている。

白を基調にしたページの中央には、ダイニングテーブルを囲む家族の写真がある。
その下に、前回、二案用意することになったコピーが並んでいた。


『家事を減らして、家族の時間を増やす家』

『暮らしに余白が生まれる家』


「前回の意見を踏まえて、分かりやすさを優先した案と、少し感情に寄せた案を作りました」

広報担当者がスクリーンを指して説明を始める。


私は手元の資料とスクリーンを交互に見ながら、赤ペンで気になる箇所に印をつけた。

視界の端には、前方に座る木ノ下くんがいる。
前回の会議と同じ、マーケティング部の課長の隣。

もう、そのことに驚きはしなかった。