恋を知らないきみへ

電車の端の席に座り、膝の上にバッグを置く。

車内は帰宅する人たちで混んでいた。


向かいに座る人はスマホを見ていて、すぐそばに立つ会社員はイヤホンをしている。


誰も私を見ていない。

電車が動き出して、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めた。


侑樹さんとは、もう恋人じゃなくなった。
何度頭の中で繰り返しても、実感が湧かない。

嫌いになったわけじゃない。
一緒にいた時間が、全部嘘だったわけでもない。

“ちゃんと”好きでいようとした。
大切にしようとした。

恋人として間違えないように、ずっと笑っていた。

でも、それはきっと、侑樹さんが欲しかったものじゃなかった。

……だから結果的に、私は彼を傷つけた。


膝の上に置いた自分の手を見つめる。

木曜日の夜。
この手を、木ノ下くんに握られた。

思っていたより、ずっと大きな手だった。

ただ思い出しただけなのに、それだけで胸が苦しくなる。


避けられたことが苦しい。

目を合わせてもらえないことが苦しい。

笑ってもらえないことが苦しい。


……こんなに苦しいのに。

どうして、それでも木ノ下くんのことばかり考えてしまうんだろう。


視界が滲んできて、瞬きをしたら涙がひと粒だけ頬を伝った。


泣くつもりなんてなかった。

侑樹さんとさっき別れたばかりだからなのか、彼を傷つけたことが悲しいのか。
自分の気持ちに気づいてしまったからなのか。

もう、何も分からない。


ただ、初めて人を好きになるって、もっと幸せなものだと思っていた。

こんなに苦しくなるの?
こんなに自分が分からなくなるの?

こんなに、たった一人の言葉や表情に振り回されるものなの?

私はこんな感情を、今まで知らなかった。


流れた涙を、指先でそっと拭う。

それでも、胸の奥に浮かんでいるのは侑樹さんではなかった。

私には笑わなくなった、あの人の顔だった。


頭痛はいつの間にか消えていたのに、胸の痛みだけは残っていた。


……どうして。

どうして、木ノ下くんなんだろう。


嫌いだと思えたら、きっと楽だったのに。

私、たぶん木ノ下くんのことが───


そこまで考えて、きゅっと自分の手を握り直した。