恋を知らないきみへ

「……ひとつだけ聞いていい?」

「なに?」

少し迷った素振りをしたあと、彼は口を開いた。


「……“マーケの木ノ下くん”?」

───息が止まった。

「……えっ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。


けれど、木ノ下くんの名前を聞いた途端、頭の中にいくつもの場面が浮かぶ。


険しい顔で言い合ったこと。

一緒に昼ご飯を食べたこと。

私の言葉を拾ってくれたこと。

ちゃんと食べろと言われたこと。

酔って笑っていた顔。

肩にかかった重さ。

重なった手。

冷たい目。

避けてるよ、と言った声。

一度くらい、こっちを見てほしいと思ったこと。


「違う」とすぐに言おうとした。でも、声が出なかった。


侑樹さんは、そんな私の顔を見ただけで分かったらしい。

小さく息を吐いて、悟ったように少しだけ笑った。

「……そっか」


ここはきちんと、『違う』と言わなければいけない気がした。

私は木ノ下くんのことを、好きだなんて思ったことはない。

そんなはずはない。
だって、あの人は私のことを嫌いだと言った。

今だって避けられている。


───なのに。

否定する言葉が、どうしても出てこなかった。


「じゃあね、ほのか」

侑樹さんは今度こそ背中を向けた。


私はその場に立ったまま、遠ざかっていく後ろ姿を見つめる。


追いかけることはできなかった。
呼び止めることもできなかった。

やがて人混みの中へ紛れて、侑樹さんの姿が見えなくなる。


そこでようやく、私はゆっくりと駅へ向かった。




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