恋を知らないきみへ

私が言葉に詰まっていると、彼の方が「あのさ」とここで腕を組んだ。

「会社になにしに来てるの?」

その言葉は、どこかで聞いた覚えがある。
だけどいつ聞いたのか、今すぐには思い出せない。


「……仕事だよ」

やっとの思いで言い返したのに、そこにはどこか自信がなかった。
金曜日の自分の浅はかさを浮き彫りにされたような気持ちだった。

「私は仕事をしに来てる」


木ノ下くんは少しだけ目を閉じた。

「……そう」

ただ、それだけだった。
肯定なのか否定なのかも分からない返事。

「でも、俺はああいうの、会社で見たくなかった」

静かな声は、怒鳴っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、本当にそう思っただけみたいに。

感情を押し殺したような声だった。


「もういいかな」

そう言って木ノ下くんは壁から背中を離した。

私は何も言えなかった。
言いたいことはたくさんあるのに、ひとつも言葉にならない。

「話すことないから」

私の横を通り過ぎて、彼は非常階段の扉へ向かう。
金属音が聞こえて、ドアが開いたことは分かる。


「木ノ下くん……!」

咄嗟に呼び止めても、彼はまったく振り返らなかった。

扉が閉まる音だけが、やけに大きく響く。


閉まった扉を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。

もう一度扉が開く気がして、目を離せなかった。