恋を知らないきみへ

行かないでほしくて、ほとんど無意識に彼のワイシャツを掴んでしまった。

周りに人もいるのに。
今回のブランドに関わる他部署の人たちがたくさんいるのに。

自分のした行動にびっくりしていると、すぐ上から小さな低い声が降ってくる。

「……離して」

ハッと我に返って慌てて掴んでいた袖を放した。


その場で固まってしまった私と木ノ下くんを残して、ホールにいたほとんどの人たちがエレベーターに乗っていく。

木ノ下くんは周囲を一度見回した。

ブランドメンバーがまだ何人かホールに残っているのを確認すると、小さく息をついて、エレベーター脇にある非常階段のドアを開けた。

「……こっち」

促されるがまま、私は非常階段へと足を踏み入れた。


コンクリートの匂いと、薄暗い階段と、踊り場に光る蛍光灯。
カツン、とヒールの音が響いた。

賑やかだったさっきの廊下とは全然違う、息遣いさえ聞こえてきそうな静かな空間だった。


「……で?」

彼はコンクリートの壁に背中をつけて、無表情で私を見下ろす。

こうして向き合っている雰囲気も、もう今までとは全然違う。


……怖い。

何が怖いんだろう。

木ノ下くんのこんな顔を見るのが怖いのか。
このまま、元に戻れなくなるのが怖いのか。

自分でも、よく分からなかった。


「……あのさ、私なにかした?木ノ下くん、怒ってるよね?」

今日のこれまでの違和感を伝えたくて、会議の時に感じたこともそのまま口にする。

「会議の時も、いつも隣に座るのに座らなかったし。……全然目も合わせてくれないし。私のこと、絶対避けてると思って」