恋を知らないきみへ

私はバッグを掴むと、まだ片付けの途中だった資料をそのまま押し込んだ。

「あ、小関さん。営業資料よろしくね」

行こうとしたところへ部長に声をかけられ、慌てて振り返る。

「はい。今週中にまとめます」

「頼んだよ」

その声にうなずいてから、もう一度ドアを見る。

木ノ下くんの姿は、もう見えない。

それでも私は、逃げるように会議室を出た彼を追うために、足早に廊下へ出た。


バッグを抱えたまま、彼が向かったはずのエレベーターホールへ急ぐ。
会議室を出た各部署の関係者も、ゆったりとした足取りでエレベーターホールへ向かっている。

私はヒールを鳴らしながら、ほとんど小走りで人だかりの向こうを目指した。


エレベーターホールの手前あたり、集団の先頭近くに、見慣れた黒髪の後ろ姿を見つけて、ほぼ反射的に声をかける。

「木ノ下くん」

絶対に木ノ下くんなのに、彼は頑なに振り向かない。
あからさまなほど、私を避けてる。というか、もはや無視に近い。

「……木ノ下くん!」

もう一度名前を呼んだら、やっと振り向いてくれた。

でも、その顔は──どこか冷めている。


「……なに」

やっと返してきたと思ったら、そんな言い方をされて思わず息を飲んだ。

「あ、あの……、さっきの会議。ちょっといつもと違ったから」

木ノ下くんって、こんなに冷たかったっけ。いや、ここまで冷たくはなかったはずだ。

でも、この温度はどこかで知っている。

──そうだ、初めて仕事を始めた時だ。

『たぶんきみのこと、嫌いだと思う』と言われたあの時と同じ温度。


「いつもと違う?どこが?」

「今も……なんか違うよ」

「俺はいつも通りだけど」

木ノ下くんはそう言って、ちょうど到着したエレベーターへさっさと乗り込もうとする。