恋を知らないきみへ

すれ違う瞬間、木ノ下くんの姿を確認したけれど彼はまだフリーズしていて、「お疲れ様」なんて声もかけられなかった。


ラウンジから出てエントランスを歩きながら、侑樹さんがやっとちょっと反省したみたいに苦笑いする。

「……見られたかな?ギリ見られてないよね?」

「──見られたよ」

「でも知り合いじゃないでしょ?」

呑気な問いかけに、頭が痛くなりそうだった。


「……マーケの木ノ下くん」

「“マーケの木ノ下くん”って……、え!?ブランド一緒に作ってる人?」

「前に侑樹さんも挨拶してたよ」

「うわ、そうだっけ?やば、ごめん、顔は覚えてないわ」


会社を出た途端に、夜の熱気と湿気が取り囲んでくる。

長い長い夏は、暑さをなかなか終わらせてくれない。
ずっと暑い。ずっと湿気っている。

そんな中、侑樹さんがいつものように肩に手を回してきた。

「今日行くイタリアンさ、口コミめっちゃいいんだよ」


どうやら彼はキスを見られたことなんて、たいして気にも留めていないらしい。

私がものすごく動揺していることには気づかず、コース料理の話を楽しげにしている。


曖昧にうなずきながら、さっきの驚いた顔をしていた木ノ下くんのことを思い返していた。


……あぁ、私。どうして。

どうして、あそこで侑樹さんを止めきれなかったんだろう。
どうしてもっと強く止められなかったんだろう。

嫌だと言ったのに。
それでも、止めてもらえなかった。


彼には、彼にだけは、見られたくなかった。