恋を知らないきみへ

数秒後に、すぐに私の肩に木ノ下くんの頭が寄りかかってくる。

……寝るの早すぎ。

「木ノ下くん、どこで降りるの?起こすから」

「……恵比寿」

それだけ答えて、彼は目を閉じてしまった。


動き出した電車の中では、座っている人が多かった。
ほとんどの人が、スマホをいじっているか、イヤホンでなにか聴いているか、ウトウトしているか。

平日の遅い時間なんて、こんなものだ。


左肩に乗る重みと、電車の揺れ。

カタタン、という不規則な音を聞きながら、ふと寝息を立てている木ノ下くんの横顔を見つめる。


胸ポケットに入れたスマホ。
ほとんど力が入っていない手で、なんとか抱えているビジネスバッグ。
黒革のシューズに、チャコールグレーの靴下。
シワになったワイシャツ。

あまりちゃんと見ることのない顔を見ようとして、長い前髪をそっと手で払った。


……やっぱり寝てる。

そのまま電車がガタン、と大きく揺れて、ほんの少しバランスを崩しそうになった。


その瞬間、木ノ下くんの右手が私の手を握った。

「……!」

びっくりしたのは、その時だけ。

どうやら彼は反射的に私の手を握ったようだった。そのまま木ノ下くんの膝の上へ、重なった手が力なく落ちた。

握られた手は、彼の手と重なったままでほどけない。


───いや、なんなの、この状況。

大混乱する頭を整理できないまま、いくつもの駅を通り過ぎた。


そしてやがて、電車が恵比寿駅に到着した。


「木ノ下くん、恵比寿だよ」

握られていない方の手で彼を揺すると、ハッとしたように身体を起こした。
途端に肩に感じていた重みが一瞬で消える。


「あっ……、降りる」

彼はあまりにもあっさりと私の手を離して慌てて立ち上がると、ふらつきながら電車を降りた。


そしてドアが閉まる前にこちらを振り向く。

「じゃあね」

笑って手を振る木ノ下くんが、なんだか新鮮だった。
つられて私も手を振ってしまう。

「……また明日」


そう返事した声が、彼に届いたかどうかは分からない。
分からないうちに、ドアが音を立てて閉まってしまった。


さっきと違って私の隣が空いた電車が、また走り出した。

その中で、自分の手をそっと見下ろす。
まだ、木ノ下くんの体温が残っている気がした。

……思ってたよりも、ずっと大きい手。


───なんでこんなに落ち着かないんだろう。


その手を自分で握り直して、流れていく景色をぼんやり眺めていた。