恋を知らないきみへ

そこまで会話して、また沈黙が落ちた。

静かな部屋に響くのは、キーボードを叩く音と、エアコンの風だけ。
周囲の小会議スペースに、人の気配はなかった。


ふと窓の外を見ると、夕焼けだった空はもう薄暗くなり始めている。

「……なんかさ、」

私はペンを置いた。

「あと一歩なのに。どうしても出てこないね」

「……うん」

木ノ下くんも珍しく苦笑いする。

「一番もどかしいやつ」

その言葉が妙におかしくて、二人で小さく笑った。


結局、その日も答えは見つからなかった。

ホワイトボード代わりに使っていた紙には、消した跡と書き直した跡ばかりが増えていく。


『余裕』

『安心』

『暮らし』

『気持ち』


どれも全部、間違ってはいない。
でも、どれもまだ違う。

その"まだ違う"を、お互いが同じように感じていることだけが、唯一の収穫だった。



かなり長い時間話し合ったものの、結局これという決定的な言葉が出ないまま、時計は十九時を少し回っていた。


「今日はここまでにしようか」

木ノ下くんが切り替えるようにそう言ってパソコンを閉じる。

「……うん、そうだね」

私も素直にそれを受け入れた。

無理やり決めても、きっと後悔する。
そんなことは、もう二人とも分かっていた。


荷物をまとめながら、私は昼休みの会話を思い返していた。

実家のお母さん。手作りの唐揚げ。しゃぼん玉。

ショッピングモール。並んで買う映画館のポップコーン。疲れた帰り道の外食。

どれも住宅の話とは関係ないようでいて、不思議なくらい全部つながっていた。


設備が欲しいわけじゃない。間取りが欲しいわけでもない。
その先にある暮らしを、私たちは言葉にしたいんだ。

まだ、その言葉には届かない。
でも、不思議と焦りはなかった。


木ノ下くんが昼休みに言っていた言葉。

『少なくとも先週より近づいた』

その言葉を、今なら私も同じ気持ちで言える。


答えはまだ出ていない。

それでも。昨日より、確実に近づいている。


そんな手応えだけを胸に、私たちは静かな会議室をあとにした。