白無垢のまま御曹司社長のオフィスに居座ったら溺愛が始まりました

「お前の実家は、今すぐあの式場代を全額支払える余裕があるのか」
「普通の会社員の家庭よ?そりゃあ、何十年もコツコツ貯めてきた貯金を一気に崩せば、払えなくはないわ。でも、あんな身勝手な裏切りのために、両親が自分たちの老後のために大切に残してきたお金を遣わせる理由なんて、どこにもないでしょう」
「なら、足りない分の費用は、俺が一時的にすべて立て替えてやる」
「……いらないわよ、そんなの」
「別に、今すぐ返せと言っているわけじゃない。お前が落ち着いてからでいい」
「もっといらない。お断りよ」
「お前な、こんな緊急事態にまで意地を張っている場合か」
「意地なんかじゃないわ。あなたの会社だってあいつのせいで莫大な被害を受けているのに、これ以上、私個人の問題まであなたに背負わせたくないだけよ」

 チーン、と間の抜けた電子音と共にエレベーターの扉が開き、私たちは並んで広大なロビーへと歩き出したが、呆れたように小さくため息を吐いた。

「お前は、本当にどこまでも可愛げのない女だな」
「あいにくですけど、可愛げの良さで高額な請求書は払えませんから」
「……フッ、それはそうだ」

 一歩外へ踏み出すと、東京の空からはいつの間にか、しとしとと冷たい小雨が降り注いでいた。慣れた手つきで黒い傘を開くと、それを躊躇いなく私の頭上へ大きく差し出す。

「ちょっと、九条。あなた、自分の右肩が完全に雨で濡れているわよ」
「気にするな。お前の方が髪が長い。濡れて後から乾かす羽目になる方が、見ていて面倒だ」
「髪を乾かすのは私自身なんだけど」
「だから言っているんだ。お前が余計な手間で時間を取られるのが煩わしい」

 差しのべられた一本の傘の下、私たちの肩が触れ合うほどに距離が近くなる。アスファルトを濡らす雨の独特な匂いと、九条のパリッとした白いシャツから漂う、どこか落ち着く清潔な香りがふわりと混ざり合う。
 胸の奥が妙にドギマギするのを感じて、一歩だけ不自然に外側へと歩幅をずらした。今は、拓也以外の他の男の気配を、こんな風に意識している場合ではないと言い聞かせながら。

 オフィスを兼ねた最上階の部屋へと戻ると、私の携帯電話に母からの着信と、短いメッセージが入っていた。

『莉乃、今夜、拓也さんのご両親と急遽話をすることになったの。莉乃も一緒に来られるかしら?』

 行方を眩ませた拓也の実家から、ここにきてようやく連絡があったらしい。
 話し合いの場所として指定されたのは、皮肉にも、数日前に私たちが挙式を行うはずだったあのホテルの一室。両家の親が集まり、今後の破談の手続きと、莫大な費用の分担について直接話し合いたいという内容だった。

「行くわ」

 私が迷わずに即答すると、デスクでパソコンに向かっていた彼が、鋭く顔を上げた。

「一人で行くつもりか」
「両親が一緒よ。それに、これは家同士の問題だから」
「拓也の親は、あいつの横領や海外逃亡について『一切何も知らなかった』と言い張っているらしいが、そんな言葉を額面通りに信用するな」
「わかっているわ。騙されるつもりはない」
「俺も行く」
「えっ?だから、これは会社の話じゃなくて、プライベートな家同士の――」
「あいつの私生活での裏切りは、会社の横領事件と完全に表裏一体で切り離せない。それに、あいつの親が本当に何も知らなかったのか、あるいは裏で資金援助でもしていたのか、俺自身の目で直接確認する必要がある」
「……九条、もしかして私のことを心配してくれているの?」
「勘違いするな。法的手段に出る前に、重要な証拠を取りこぼすのが嫌なだけだ」

 どこまでも素直ではないその冷淡な返事に、少しだけ呆れ、鼻で小さく笑って見せた。
 だが、その日の夕方、私のスマートフォンに拓也の母親から、直接のメッセージが届いた瞬間、部屋の空気は完全に凍りついた。

『莉乃さん。拓也がこんな突飛な行動を起こした不始末についてですが、元はと言えば、あなたの日頃の態度にも原因があったのではありませんか?今夜の席で、母親である私に納得のいく説明をきちんと用意しておいてくださいね』

 液晶画面に躍る身勝手な活字を見つめたまま、私の指先は恐怖と怒りでみるみるうちに冷たくなっていく。
 大金を持ち逃げして女と海外へ逃げた最悪な息子を棚に上げて、式場に白無垢姿で置き去りにされた被害者である花嫁に向かって、すべての原因と説明を求めるという、あまりにも理不尽な内容。

 震える手で、その画面を無言のまま九条の前へと差し出した。
 文字を目で追った瞬間、九条の切れ長の瞳から、一切の温度が綺麗に消え失せた。

 話し合いの場として選ばれたのは、あの日、無残にも中止になってしまった結婚式場と同じホテル。
 正面の重厚な回転玄関をくぐった瞬間、身体が拒絶反応を起こしたように足がすくみそうになる。
 あの日、ドレスに包まれていた時に嗅いだものと全く同じ、華やかな花の香り。大理石の磨き抜かれた床に響く、冷ややかな靴音。ロビーの奥に目を向ければ、華やかなウェディングドレスを纏った別の新郎新婦を、笑顔で案内しているスタッフの姿が嫌でも視界に入ってくる。
 心臓が嫌な音を立てて波打ち、胸が激しくざわついた。けれど、隣を歩く九条の、規則正しく力強い足音へと必死に意識を集中させた。

「……帰るか」

 私の微かな硬直を察した九条が、視線を落とさずに低く呟いた。

「帰らないわ」
「顔色が最悪だ。無理をして強がるな」
「強がってでも前を向いていないと、あの人たちに最初から負けてしまうでしょう」

 それ以上、余計な引き止めはしなかった。ただ、私を周囲の好奇の視線から遮るようにして、いつもより半歩だけ前を歩いてエスコートしてくれた。

 案内されたホテルの小会議室の扉を開けると、そこには私の両親と、拓也の両親がすでに重苦しい空気の中で揃っていた。
 私たちの姿を見るなり、拓也の父親はすぐに立ち上がって深く頭を下げたが、母親の方は品性の悪さを隠そうともせず、椅子にどっかと座ったままだ。

「莉乃さん、この度は本当に……」
「まず、お伺いします。お二人は、息子さんの現在の居場所をご存じですか」

 父親の消え入りそうな謝罪の言葉を冷徹に遮り、単刀直入に尋ねた。

「知らないんだ。本当に、私たちもあの子からは何も聞いていなくてね……」
「いいえ。実は昨日、あの子から一度だけ携帯に連絡があったのよ」

 父親の言葉を遮るように、拓也の母親が不満げに口を開いた。

「自分は今、無事だから余計な心配はするなと。それから……莉乃さんとの結婚については、実は随分と前からずっと迷っていたんだ、とも言っていたわ」